フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン(Friedrich Karl Prinz von Preußen, 1893年4月6日 - 1917年4月6日)は、プロイセンの王族、軍人、馬術選手。
生涯
プロイセン王子フリードリヒ・レオポルトとその妻でシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フリードリヒ8世の娘ルイーゼ・ゾフィーの間の第3子、次男として生まれた。全名はタッシロ・ヴィルヘルム・フンベルト・レオポルト・フリードリヒ・カール(Tassilo Wilhelm Humbert Leopold Friedrich Karl)。母方の伯母はドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム2世の皇后アウグステ・ヴィクトリアである。
1903年よりプロイセン第1近衛歩兵連隊の名誉的な中尉に任じられ、1908年より正式に中尉として配属された。1912年のストックホルムオリンピックでは馬術部門の障害飛越競技団体の4人のドイツ代表選手の1人に選ばれ、親戚のヴィルヘルム・フォン・ホーエナウ伯爵らとともに銅メダルを獲得した。オリンピックに際して乗っていた馬は「ギブソン・ボーイ("Gibson Boy")」号といった。
1914年に始まった第1次世界大戦では、ドイツ陸軍砲兵部所属の第258飛行大隊の隊長を務めたが、出来る限り単独でオスヴァルト・ベルケ大尉の率いた第2戦闘機中隊(ヤシュタ・ベルケ)に同行して偵察を行っていた。
1917年3月21日の偵察飛行の際、フリードリヒ・カールの操縦していたアルバトロス偵察機はエンジン部分が被弾し、彼自身も足に軽傷を負った。偵察機そのものは無人地帯に不時着したが、逃避行中にフリードリヒ・カールはイギリス軍のオーストラリア人部隊に背後から攻撃され、重傷を負った。そしてそのままオーストラリア人部隊の捕虜となり、1917年4月6日、24歳の誕生日に死んだ。
系譜
フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1893-1917)の系譜 |
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外部リンク