フェルディナント・カール・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ=エステ(ドイツ語: Ferdinand Karl Victor von Österreich-Este, フェルディナンド・カルロ・ダスブルゴ=エステ(イタリア語: Ferdinando Carlo Vittorio d'Asburgo-Este, 1821年7月20日 - 1849年12月15日)は、イタリアのモデナ公国の支配者オーストリア=エステ家の公子。
生涯
モデナ公フランチェスコ4世とその妻でサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の娘であるマリーア・ベアトリーチェの間の次男として生まれた。
1847年10月4日にシェーンブルン宮殿において、同族のハンガリー宮中伯ヨーゼフ・アントン大公の娘で又従妹にあたるエリーザベト・フランツィスカと結婚した。
1848年革命の時期には、オーストリア軍人としてイタリアとハンガリーの戦場で戦い、最終的には陸軍中将にまで昇進した。さらに、オーストリア軍第26歩兵連隊の連隊長でもあった。また、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位をプロイセン王国政府に知らせるため、ベルリン宮廷に特使として派遣されている。
ブルノに滞在していたときに気分が悪くなり、チフスに感染していると診断されたが、姉マリア・テレジアの看病も空しく診断からわずか5日で急死した。28歳だった。遺骸はモデナのサン・ヴィンチェンツォ教会に安置された。
フェルディナント・カールの死後、未亡人エリーザベトは同族のカール・フェルディナント大公と再婚した。
子女
エリーザベト・フランツィスカとの間に娘を1人もうけた。
系譜
- [1]は[2]の弟で、2人の妹にオーストリア皇帝フランツ1世の3番目の妃になったマリア・ルドヴィカがいる。
参考文献
- Österreichischer Zuschauer. Ausgabe 1, Comptoir des Österreichischen Zuschauer, 1850, S. 42, Digitalisat