ファラオの一覧(ファラオのいちらん)は、紀元前3000年前から始まる古代エジプトを統治したファラオの一覧である。
前提
本稿の記述について
これまで、ファラオの一覧は帝国時代に書かれたトリノ・パピルスや、紀元前3世紀の歴史家マネトの記した『エジプト史』、セティ1世の葬祭殿やパレルモ石に残されたファラオのリストなど、様々な過去の遺物を資料としてその調査研究が進められているが、これらの情報はいずれも断片的であり、相互に矛盾する点も多いため参考文献や資料によってその内容は大きく異なる。
本稿に記すファラオの一覧は特に脚注の無い箇所については基本的にエジプト考古学者ピーター・クレイトンが著した『古代エジプト ファラオ歴代誌』と - ジョン・E・モービー の『世界歴代王朝王名総覧』を元に書き起こし、補完情報や記述の異なる情報については別途脚注で出典・説明を加えるものとする。また、資料の少ない第一中間期および第二中間期のファラオについては系図の復元が難しく、現在も議論が継続しているため、比較的新しい邦訳資料であるエイダン・ドドソンの『全系図付エジプト歴代王朝史』の記述も参考にする。尚、一覧中の日本語表記ならびに英語表記に関しては吉村作治の『古代エジプトを知る事典』に倣った。
年代の分類について
年代の分類についてもファラオの一覧と同様、資料によってまちまちであり、本稿はクレイトンの分類を元にしている。マネトはエジプトが統一されたと考えられる紀元前4000年期末からアレキサンダー大王に征服される紀元前332年までの期間を30の王朝に分割しており、現代のエジプト史研究もそれが基礎となっている[2]。紀元前343年からの第31王朝を第2次ペルシア支配、紀元前332年からのマケドニア王国による支配とプトレマイオス朝の時代を第32王朝とする場合もある[3]。
年代そのものについては、地中海文明とのつながりができた紀元前664年の第26王朝プサムテク1世の時代から確かなものであるとされており[1]、それ以前の年代は20年から200年の単位で誤差が生じている可能性があるとクレイトンは述べている。
初期王朝時代
初期王朝時代は黎明期と呼ばれる紀元前3150年から3050年頃までの第1王朝以前と、第2王朝が終わる紀元前2686年頃までの二つに分けることができる。黎明期は先王朝時代の各王朝(紀元前5000年頃から興った上下エジプトの王朝)を統一した年代とされており、一般にはナルメルがその創始者であるとされる[4]。また、別の王として上エジプトのヒエラコンポリスで発見された儀礼用鉾(メイスヘッド)にサソリの絵と共に描かれた名前のわからないファラオ(スコルピオン)がおり、この二人が同一人物なのかどうかは不明である[5]。さらに、マネトによればエジプトを統一したのはメネスであるとしており、ナルメルやスコルピオンとメネスが同一人物なのかどうかについても結論が出ていない[5]。
ナルメルの後継者として次の王となったのが王妃ネイトへテプ(英語版)との間に設けたとされるホル・アハで、上下エジプトの統一王名(ネブティ名)として「メン」という名を持っている。「メン」は「樹立された」を意味する言葉で、彼の建設した首都メンフィスにもその名を見ることができる。また、マネトの言う最初の統一王朝の王「メネス」とも通じることからホル・アハをメネスであるとする研究者も多い[6]。
ホル・アハの後継となったジェル(アトティス)の治世は、57年の長きに渡っているとされ、アビドスに作られたジェルの墓の周辺には300人以上の家臣の殉葬墓がある。その後はジェト(ワジ)が統治したとされるが、ジェルの王妃メルネイトは、アビドスの墓の調査などからジェルとジェトの統治期間の間に単独または短期間の摂政政治を行った可能性が指摘されている。ただし、マネトは女性が王位に就くことが認められたのは第2王朝のニネチェルの時代以降であるとしている。
デンの時代には出土した象牙ラベルに「初めて東を懲らしめる」と記されており、アジア人との接触が確認できる。アネジブ(ミエビドス)の時代には王家は南北に分かれて大きく争った。その後争いはおさまり、セメルケトの治世に入るが、サッカラにあるテンロイの墓から出土した王名表(サッカラ王名表)にはその名が載せられておらず、いくつかの出土品からアネジブの名を抹消していることなどから、セメルケトは王位の簒奪者であったとする説もある。
第1王朝の最後の王はカアであるが、マネトはその名をビエネケスとしており、その他にも統治を行った王が存在する可能性もある。
マネトは第2王朝は9人の王によって302年間統治されたとしている。しかし、現存する他の史料や文献などから多くても第2王朝の王は6人、統治期間は200年弱であるというのが一般的な見解となっている[7]。ヘテプセケムイ、ラネブ、ニネチェルの統治についてはほとんど知られていない。
6番目にセケムイブという名で即位したセト・ペルイブセンの時代には南北の勢力争いが再び激化し、内乱の時代となったとされている。これはホルスとセトの神話的対立の名の下に起こった争いで、セケムイブはセト派に肩入れし、そのホルス名をセト・ペルイブセンに改め、国家規模でホルス神信仰からセト神信仰への改宗が行われた。
第2王朝最後の王であったカセケムイの前に、カセケムという名の王がいたとする場合もある。一方でこの二人は同一人物でセト・ペルイブセンの時代に乱れた国土を統一したカセケムが「二つの力強いものの出現」を意味するカセケムイへと名を変えたとする説もある。
古王国時代
メンフィスを中心として中央集権国家体制が確立された第3〜第6王朝の期間を古王国時代と呼ぶ[8]。マネトによれば第3王朝は8人の王によって200年近い統治期間があったとされていたが、実際には5人の王によって紀元前2686年頃から2613年頃の統治期間であったとするのが有力となっている。最も知られているのは2代目ファラオとなったジェセルで、後にエジプト文明の象徴ともなった大型建築物の創造に着手したことによる。今日では、ジェセルがサッカラに築いたピラミッドと周辺の葬祭複合体は世界最古の石造り建築物とみなされている。
古代エジプトを象徴する巨石建造物であるピラミッドの造営が始められたのはジェセル王の時代からで、第4王朝に入ると技術の発展とともにその規模は増大した。
ファラオという地位の概念も時代を追う毎に変化を続け、次第に神格化していきホルス神の化身であるとされるようになった。この考えは第5王朝以降には太陽神ラーの息子であるとされるようになった。しかし王朝の版図が広がるにつれ、地方の官僚たちが力をつけるようになり、中央の統率力が弱くなっていく。第6王朝の頃には政治権力が分極化し、無政府状態となり、繁栄を極めた古王国時代は終わりを告げた。
第1中間期
第6王朝による統治が終わった頃よりエジプトは中央集権制が瓦解し、約140年の戦乱の時代、所謂第1中間期を迎えることとなる。この時代の資料も非常に不明瞭な点が多く、具体的にどのようなファラオが存在したかについてはあまり判っていない。第7王朝は70人ほどのファラオからなったとマネトは記しており、また第8王朝はアビドス王名表には17人の王の名が記されているが、実質的統治を行った王として裏付けのあるのはウアジカラー、カカラー・イビィのみとなる。
第8王朝崩壊後はヘラクレオポリスに興った第9王朝を創始したメリイブラーの一族によって一時全土が統一されたが、この統治は約30年で終了し、ヘラクレオポリスを拠点とする第10王朝とテーベを拠点とする第11王朝の対立の時代(南北朝時代)が始まる。
その後、第11王朝のメンチュヘテプ2世によってエジプト再統一がなされ、混沌の時代はようやく終わりを告げた。
中王国時代
メンチュヘテプ2世によって南北王朝は統一を見せ、紀元前2060年ごろより中王国時代が始まった。以後、テーベは1000年の間、エジプトの政治の中心として栄え、守護神アメンを信仰する国家がエジプトを支配した。
統一を成し遂げた第11王朝の諸王は中央集権政治の再生を目指したがアメンエムハト1世のクーデターによって倒れ、紀元前1991年ごろ第12王朝が成立した。アメンエムハト1世は地方有力貴族に各地方知事の地位を与えて自由裁量権を認め、一方で首都をテーベからラーフーンへと移し、王権復古のための経済的基盤の強化に着手した。この時代には対外交易も活発になり、ビュブロス、クレタ、プント、シナイなどへしばしば通商隊が派遣されている。また、ヌビア遠征などの領土拡大も試みられ、センウセレト3世の時代には第2急湍地方まで領土を拡大している。
第12王朝最後のファラオとして統治したのは女王であったセベクネフェルであるが、クレイトンはこの事実について「女性が王位継承したという事実は後継者に問題があった可能性がある」と指摘している。
第2中間期
第13王朝以降は再び動乱のエジプト第2中間期に位置付けられているが、13王朝半ばまでは比較的平和な時代が続き、中央集権制度も維持されていた。その一方で、王権は徐々に形骸化し、末期には地方の貴族が再び力を保持し始める。
下エジプトではパレスティナ地域から移住してきた人々のコミュニティが形成され、やがて第14王朝が興って東デルタ地域を支配したが、それも飢饉や疫病などに見舞われて半世紀程で衰退、その後は新たにエジプトに侵入したヒクソスがエジプト北部に生じた政治的な空白を埋める。ヒクソスは積極的に支配を拡大し、第15王朝と、その宗主下に追随する諸侯の連合である第16王朝を樹立した。
土着のエジプト人は第13王朝を解体して上エジプトに本拠を移し、第17王朝を興した。テーベを都とするこの政権はヒクソスとの共存を図り概ね成功していたが、しばしば激しい対立も起きており、前1600年頃には一時的にテーベを占領され、宗主権を認めざるを得ない状況にまで追い込まれている。そのため断絶した前期の政権を第16王朝、ヒクソス撤退後に復興した後期の政権を第17王朝と呼ぶ場合もある。この不安定な情勢はイアフメス1世によってヒクソスが追放され、統一がなされる紀元前1570年ごろまで続いた。
新王国時代
ヒクソスが追放され、国土が再統一されると、エジプトは史上最も繁栄した時代を迎える。
トトメス1世、3世をはじめとする軍事に秀でた王たちは対外遠征を繰り返し、幾つもの小国を宗主下に置いた。その結果、エジプトは広大な領土を抱えるオリエント随一の大国となり、北のヒッタイトやメソポタミア諸国とも覇を競った。同盟国からは多大な富や資源がもたらされ、それらを元手に王たちは神々を讃えて盛んに寄進事業を行った。しかし、この行為がやがて寺社勢力の増大を招き、政治は次第に王家と神官団の駆け引きの様相を呈した。アメンヘテプ4世は国家主神の座をすげ替える宗教改革を断行し神官団への牽制を図ったものの、十分な成果を得られないまま頓挫し、後継者のツタンカーメンが若くして没すると王統も途絶えた。
軍隊の支持を集めて即位したホルエムヘブは低下した国力と威信の回復に努め、続く第19王朝の王たちも軍事に力を注いだ。ラムセス2世の代にはヒッタイトとの間に史上初の和平条約を締結され、国際的な秩序が確立した。ラムセス2世の70年近い治世はエジプト史上における黄金期となり、アブ・シンベル神殿をはじめ古代エジプトを代表する建築物の多くがこの時代に築かれた。
紀元前1200年頃、オリエント全域で災害や気候変動が相次ぎ、それに伴う民族移動の余波を受けて国際秩序は崩壊、エジプトも動揺に巻き込まれていく。近隣の大国が相次いで滅亡する中、エジプトはラムセス3世の手腕で国家の崩壊自体は食い止められたものの、対外的な影響力は喪失し、衰退が決定的となった。短期間でファラオが交代し、王権が求心力を失うにつれ、神官団は公然と国政に介入するようになり、遂には事実上の君主として上エジプトの所領を統治するようになる。こうして生じた権力の分立はもはや解消されず、第20王朝が途絶えると繁栄の時代は終わった。
第3中間期
国力の減退したエジプトは統一と分裂を繰り返す三度目の動乱期を迎える。この時代は過去二度の中間期と比較すると国内外で史料が多く残されているため、政治権力の変移が詳しく復元されている。
王権を引き継いだ第21王朝は暫くの間、南部の神官勢力と国内を二分し、過去の王たちの建築資材や宝物を流用するなどして辛うじて威光を保っていた。こうした混迷は1世紀程の時間をかけて徐々に収束し、両勢力間で進められた婚姻政策によって政治権力は統合に向かった。また、この時代には第19王朝時代からエジプトに流入し始めたリビア系移民の子孫が要職に就くようになる。その内の一人であるシェションク1世は第21王朝の王女の夫となって王位継承権を獲得し、第22王朝を開いた。
シェションク1世は親族を大司祭に据えて国内の再統一を達成した上、隣国イスラエルに侵攻する等、大国エジプトの外的な威信を回復させる事に成功した。リビア王家は血族の結び付きを重んじ、シェションク1世の後継者たちも地方の権力者との婚姻を積極的に行うことで、親族に取り込んでいった。しかし、これは多数の傍流を生み出す結果に繋がり、王が亡くなる度に後継者を巡る争いが起こる要因にもなった。そのため王家は内紛に忙殺されるようになり、やがて離反した傍流の一つが第23王朝を興すと、多くの外戚もそれに続いた。また第24王朝など、縁戚を持たない諸侯の中にも独立するものがいた。
末期王朝時代
エジプト北部でいくつもの小勢力が分立する一方、南方のヌビアではエジプトの先進的文化を吸収して発達した部族の中から強固な王権を有する勢力が興隆する。
ナパタを本拠地とするこのクシュ王国はやがて上エジプトの諸侯を支配下に置くと、荒廃したかつての宗主国の再建者を自認するようになった。
ピイェ王の治世中、クシュは北進を開始しテフナクトの第24王朝を盟主とする北方諸侯の連合軍との戦線が開かれる。結果、勝利を納めたクシュはエジプトの再統一を達成し、第25王朝を確立した。
ヌビア王の統治下では長年の争乱の影響か、古王国時代の文化に回帰しようとする風潮が現れた。
プトレマイオス朝時代
脚注
関連項目
参考文献