ピエロ・カラマイ(Piero Calamai、1897年12月25日 - 1972年4月7日)は、イタリアの航海士、元海軍軍人である。1956年7月に客船「ストックホルム(英語版)」と衝突して沈没した客船「アンドレア・ドーリア」の船長だった[1][2]。
生涯
カラマイは海軍軍人の家系に生まれた。弟のマルコはイタリア海軍の少将まで昇進し、海軍兵学校を指揮していたが、1957年に海で行方不明になった[3]。父親のオレステスは、イタリア初の海事雑誌"La Marina Mercantile"(商船船団)を創刊した。
カラマイは、1916年7月に海軍少尉に任官された。第一次世界大戦では勇敢さが評価されて武功銀勲章(英語版)を受章し、補佐中佐として参戦した第二次世界大戦では2度目の武功銀勲章を受章した。
第二次大戦後は海軍を退役して航海士協会に所属し、航海士として27隻の船を指揮した。1953年に就航した「アンドレア・ドーリア」の船長に就任したが、1956年7月25日、ニューヨークへ向かう途中で客船「ストックホルム」に衝突され、沈没した。衝突によって死亡した46人を除く、「アンドレア・ドーリア」の乗客乗員1,660人は避難したが、カマライは事故の責任を償うとして、船と共に沈むことを決意した。部下の説得により、最終的にカマライは救命ボートに乗ったが、これを最後に船乗りを引退した[4][5]。
引退後、友人の一人に「以前は海が好きだった。今は嫌いだ」と語った。カラマイは1972年に死去したが、死の床で何度も「乗客は無事か? 乗客は全員降りたか?」とつぶやいていたという[6]。
脚注
- ^ Cortesi, Arnaldo (July 29, 1956). Doria Warned Stockholm Twice Of Collision, Rome Paper Reports. New York Times
- ^ Horne, George (August 11, 1956). Italian line files $25,000,000 claim; Owner of Doria Asks Court to Deny Bid to Exonerate Stockholm in Crash. New York Times
- ^ Staff report (August 21, 1957). Italian Admiral Is Lost As Seas Sweep Yacht. New York Times
- ^ Andrews, Evan. “The Sinking of Andrea Doria”. HISTORY. 2021年6月3日閲覧。
- ^ Pecota, Samuel (2012年1月18日). “In Andrea Doria wreck, a captain who shone”. CNN. 2021年6月3日閲覧。
- ^ Sun, By Frederick N. Rasmussen, The Baltimore (2012年2月26日). “Some captains show bravery, others cowardice in face of maritime disasters”. baltimoresun.com. 2021年6月3日閲覧。
外部リンク