ビズ・マッキー
Biz Mackey
|
基本情報 |
---|
国籍 |
アメリカ合衆国 |
---|
出身地 |
テキサス州イーグルパス |
---|
生年月日 |
1897年7月27日 |
---|
没年月日 |
(1965-09-22) 1965年9月22日(68歳没) |
---|
身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 200 lb =約90.7 kg |
---|
選手情報 |
---|
投球・打席 |
右投両打 |
---|
ポジション |
捕手、内野手 |
---|
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
---|
- サンアントニオ・ブラックエース(1918年)
- インディアナポリス・ABCs(1920-1922年)
- ニューヨーク・リンカーン・ジャイアンツ(1920年)
- カラード・オールスターズ(1921年)
- ヒルデール・デイジーズ(1923-1931年)
- フィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツ(1925年)
- フィラデルフィア・スターズ(1933-1935年)
- ニューアーク・ドジャーズ(1935年)
- ワシントン・エリート・ジャイアンツ(1936-1937年)
- ボルチモア・エリート・ジャイアンツ(1938-1939年)
- ニューアーク・イーグルス(1939-1941,1945-1947,1950年)
|
|
---|
選出年 |
2006年 |
---|
選出方法 |
ニグロリーグ特別委員会による選出 |
---|
|
ビズ・マッキー(James Raleigh "Biz" Mackey, 1897年7月27日 - 1965年9月22日)は、アメリカ合衆国のニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは内野手、捕手。テキサス州イーグルパス生まれ。右投げ両打ち。ニグロリーグ初期の強肩・強打の選手で、日本のプロ野球設立とも関わりがあるといわれている。
来歴・人物
1918年に、サンアントニオにあったブラックエースというチームに内野手(遊撃手)として入団し、プロの野球選手となる。1920年のニグロ・ナショナル・リーグ設立の際にインディアナポリスに移籍、1922年には打率.344を放つ活躍をする。また1923年にイースタン・カラード・リーグが組織されると、マッキーは引き抜かれるような形でヒルデール・デイジーズに移った。
ヒルデールは1923年から1925年にイースタン・カラード・リーグ3連覇を達成するが、マッキーは1923年に.423という驚異的な打率を記録し、また1925年にはニグロ・ワールド・シリーズでの活躍により、その前年敗れたカンザスシティ・モナークスへの雪辱を果たす。この年以降、それまで正捕手だったルイス・サントップの年齢からくる衰えもあり、マッキーは捕手に転向することになるが、捕手となったマッキーはここでも持ち前の強肩を発揮、座ったままの姿勢で二塁へ剛速球を投げたという。
1927年には日米野球のためニグロリーグ選抜チームの一員として来日し、明治神宮野球場で最初の本塁打を放った打者になった。当時マッキーが日本の選手と握手する写真が雑誌『野球界』の表紙を飾ったこともある。また5年後の1932年にも日本に長期滞在しており、プロ野球の設立の手助けをしていたようである。マッキーは1934年と1935年にも日本を訪れている。
1937年からはボルチモア・エリート・ジャイアンツの監督を勤め、当時まだ10代だったロイ・キャンパネラ(後の野球殿堂入り捕手)に捕手の手ほどきをしていた。その後キャンパネラが一人前になったことを見届けたマッキーは、ボルティモアを離れニューアークに移籍、ここではモンテ・アービンやラリー・ドビー、ドン・ニューカムらを指導している。当時二塁手だったラリー・ドビーに、外野手に転向するのを勧めたのもマッキーである。
その後、当時ニューアーク・イーグルスのオーナーだったエファ・マンリーとの衝突から1941年にチームを離れるが、1945年に現役生活を再開、1946年には再びイーグルスの監督を勤める。50歳を過ぎた1950年にイーグルスがヒューストンへ移った際現役を引退し、その後ロサンゼルスへ移住しフォークリフトの作業員などをしていたそうである。マッキーが再び観衆の前に姿を見せたのは、1959年5月7日、ロサンゼルスのメモリアル・コロシアムで催されたキャンパネラの引退試合でのことである。
1965年にロサンゼルスで68歳で死去。2006年にニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入りした。
記録・表彰等
- ニグロリーグでの通算打率:.322
- カリフォルニア・ウインターリーグでの通算成績:二塁打62、三塁打17、本塁打28、打率.366
出典・外部リンク