バンザイクリフ(英語: Banzai Cliff)とは、北マリアナ諸島サイパン島最北端の岬である。正式名称は、プンタンサバネタ(プンタン平原)。
地理
この地を含むサイパン島は、1920年(大正9年)まではドイツ第二帝国植民地ニューギニアの一角で、国際連盟の委任統治により、大日本帝國(現・日本国)の統治下となった。
大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中(日本側呼称「あ」号作戦、米国側呼称フォレージャー作戦)、現地駐留帝國陸軍(第31軍)司令部がサイパン島北部にあり、アメリカ軍の激しい戦闘(サイパンの戦い、1944年6月15日 - 7月9日)において、追い詰められた日本兵や民間人が、スーサイドクリフと同様にアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、80m下の海に身を投じて自決した悲劇の断崖(岬)である。多くの自決者が「天皇陛下万歳」や「大日本帝國万歳」と叫び、両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになった。自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した。
のち、サイパン島南太平洋地域の平和記念公園として整備され、慰霊碑や寺院が建立されており、崖周辺にある多数の供養塔とともに、観光地の1つとなっている。慰霊碑へ向かう道の途中には戦車が遺棄されていて、見学することができる。第二次世界大戦終結後60周年の2005年(平成17年)6月28日、皇室としては初めて、第125代天皇明仁(現・上皇)・皇后美智子(現・上皇后)夫妻がバンザイクリフを慰霊のため訪問した[2]。
かつては、英語化された音でマッピ岬(Marpi)と呼ばれた。日本統治時代の地名もマッピ(松尾)で、古い文献にもそのように記されている。プンタンサバネタ(Puntan Sabaneta)という呼称は、現地の言葉であるチャモロ語での呼称である。北マリアナ政府は、この岬を正式にプンタンサバネタに変更したが、世界ではバンザイクリフが使われている。
サイパン戦の犠牲者
- 日本兵・在留日本人:55000人以上
- アメリカ兵:3500人以上
- チャモロ人:900人以上
バンザイクリフの集団自決を描いた作品
脚注
- ^ National Park Service (9 July 2010). "National Register Information System". National Register of Historic Places. National Park Service.
- ^ “慰霊碑に供花、犠牲者追悼 韓国人の碑も”. 共同通信社. 47NEWS. (2005年6月28日). https://web.archive.org/web/20150725012625/http://www.47news.jp/CN/200506/CN2005062801000972.html 2012年10月26日閲覧。
関連項目
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