ハインリヒ1世(Heinrich I., 1170年頃 - 1252年)は、アンハルト伯(在位:1212年 - 1218年)、後にアンハルト侯(在位:1218年 - 1252年)。父はザクセン公ベルンハルト3世、母はデンマーク王クヌーズ5世の娘ブリジット。ザクセン公アルブレヒト1世の兄。
生涯
父が1212年に亡くなり、兄弟で領土を分割相続、アルブレヒト1世はザクセンを、ハインリヒ1世はアンハルトを相続した。1218年には侯爵に昇格した。
従者の1人にアイケ・フォン・レプゴーという人物がいたが、彼は後に慣習法を纏めてザクセンシュピーゲルという法書を書き著した。この法書は後に中世ドイツに法典と同様に扱われるようになる。また、ハインリヒ1世は詩人(ミンネゼンガー)であり、マネッセ写本では5つの歌が載せられている。但し、爵位は誤って公爵と記されている。
1252年に死去。遺領は3人の息子に分割され、ハインリヒ2世はアッシャースレーベンを、ベルンハルト1世はベルンブルクを、ジークフリート1世はツェルプストをそれぞれ継承した。以後も所領の分割相続が続いたが、19世紀にジークフリート1世の子孫であるアンハルト=デッサウ公レオポルト4世がアンハルト所領を統一、アンハルト公国を創設した。
子女
1211年、テューリンゲン方伯ヘルマン1世の娘イルムガルトと結婚、11人の子を儲けた。
- ハインリヒ2世(1215年 - 1266年) - アンハルト=アッシャースレーベン侯
- ユッタ(? - 1277年) - メクレンブルク=ヴェルレ侯ニコラウス1世と結婚
- ゾフィー(? - 1272年) - メラーン公兼ブルゴーニュ伯オットー1世と結婚
- ベルンハルト1世(1218年 - 1287年) - アンハルト=ベルンブルク侯
- アルブレヒト(? - 1245年) - フランシスコ会修道士
- ヘルマン(? - 1289年) - ハルバーシュタット律修司祭
- マグヌス(? - 1264年) - マクデブルク律修司祭
- オットー(? - 1246年) - マグデブルク律修司祭
- ジークフリート1世(1230年 - 1298年) - アンハルト=ツェルプスト侯
- ヘートヴィヒ(? - 1259年) - レグニツァ公ボレスワフ2世と結婚
- ゲルトルート(? - 1275年) - ゲルンローデ女子修道院長
- 先代
- ベルンハルト
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- アンハルト伯
- 1212年 - 1218年
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- 次代
- 侯爵に昇格
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