ネパール王国の君主(ネパールおうこくのくんしゅ)は、現在のネパール全体を支配した君主である。
ネパール王の称号は初代プリトビ・ナラヤン・シャハの代から第7代プリトビ・ビール・ビクラム・シャハまでは「マハーラージャーディラージャ」(Mahārājādhirāja、大王の中の王)の称号を[1][2]、第8代トリブバンから終代のギャネンドラの治世までは「国王」(King)の称号を使用した[3][4]。
概要
1768年、ゴルカ王国の君主プリトビ・ナラヤン・シャハがカトマンズ・マッラ朝を滅ぼし、1769年までにカトマンズ盆地を統一。これにより、ネパール王国が成立した。ただし、ギルバン・ユッダの治世まではネパール全体の王ではなかった。
1846年にラナ家が王宮大虐殺事件で宰相位を世襲するようになると、宰相ジャンガ・バハドゥル・ラナは王に「カスキとラムジュンの大王」の称号を与える勅令を出させた[5]。その後、ジャンガ・バハドゥルは宗主国であるイギリスがこの称号を地方藩主の称号としかみなしていないと知ると、新たに首相にして大王を意味する異例の称号「首相・大王」を与える勅令を出させ、以後歴代のラナ家首相がこの称号を名乗った[6]。ここに首相が事実上の王となり、王に代わって全権を行使する専制体制が構築された。
1951年、王政復古によりラナ家の統治は終わり、「首相・大王」の称号は廃止され、専制体制は崩壊した[7]。その後、王を元首とし、内閣、議会が政治を運営する立憲君主制が取られた。
だが、1960年にマヘンドラのクーデターよって内閣、議会は解散させられ、専制政治がはじめられた[7]。その後、1990年のビレンドラの治世まで国王親政が取られていた。
また、ネパール王以外にも下位の王(ムスタン王国、サリャーン王国、ジャージャルコート王国、バジャーン王国を統治した諸王)が存在し、これらは地方藩主として扱われた。これら地方藩主もまた、2008年の王政廃止に伴って退位した。
一覧
脚注
- ^ Nepal 5
- ^ Nepal 9
- ^ Nepal 10
- ^ Nepal 13
- ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.558
- ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.559
- ^ a b 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.611
- ^ Accordingly Royal Ark, he was born on 25 December 1722
- ^ Surendra Bikram Shah in the center, sitting
参考文献
- 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。
関連項目