ドイツ社会主義共和国 (ドイツしゃかいしゅぎきょうわこく、ドイツ語 : Sozialistische Republik Deutschland)は、第一次世界大戦 の混乱の中発生した、ドイツ革命 期に共産主義 者のカール・リープクネヒト が、ドイツ皇帝 の宮殿であったベルリン王宮 から「ドイツ自由社会主義共和国宣言 」をしたことによって一時的に樹立された国家[ 1] である。以下の説明によりドイツ自由社会主義共和国 とも言う。
ドイツ社会主義共和国
Sozialistische Republik Deutschland
(国旗)
(国章)
社会主義・共産主義を示す赤旗
概要
ドイツ革命 期に労働者 や市民は首都ベルリン でゼネスト を起こした。混乱の中、バイエルン国王 ルートヴィヒ3世 などのドイツ 諸侯の君主は退位した。また、11月9日朝には帝国宰相バーデン大公子マクシミリアン がヴィルヘルム2世 の同意を得ることなくヴィルヘルム2世のドイツ皇帝 およびプロイセン王 からの退位を発表した。しかし、ベルリン では複数のレーテ が結成され、それに乗じてスパルタクス団 の指導者カール・リープクネヒト が「ドイツ社会主義共和国」の樹立を宣言しようとした。その情報を得た社会民主党 のフィリップ・シャイデマン は、リープクネヒトを出し抜いて1918年11月9日午後2時頃に国会議事堂 で共和国の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言 )。これは社会民主党から承認を得ることなくシャイデマンの独断で行われたものであり、あくまで君主制を維持するつもりであった社会民主党共同党首で臨時帝国宰相のフリードリヒ・エーベルト からは叱責を受けた。
カール・リープクネヒト
1918年11月9日、シャイデマンによる共和国宣言から遅れること2時間後の午後4時頃、リープクネヒトは旧ドイツ皇帝 の宮殿だったベルリン王宮 のバルコニーから「ドイツ社会主義共和国」の樹立を宣言した。しかし、シャイデマンに先んじられてしまっていたこともあって支持者は少なかった。
その後、リープクネヒトは1918年の大晦日にスパルタクス団を改名して新たにドイツ共産党 を創設した。続いて1919年1月に共和国政府に対して武装蜂起(スパルタクス団蜂起 )したが、社民党と結びつき鎮圧に当たった反革命義勇軍(ドイツ義勇軍 )により同志のローザ・ルクセンブルク と共に殺害された。その後彼らの遺体は川に投げ捨てられた。
ドイツ共和国の樹立を宣言するシャイデマン
ドイツ国大統領となったエーベルトは1919年8月11日にヴァイマル憲法 に調印し、8月14日に公布・施行した。これにより、「ドイツ共和国 」[ 2] が正式に樹立された。またこれに伴い「ドイツ社会主義共和国」は実体を伴わないまま消滅した。
ヴァイマル共和政期の間、スターリン主義 的に変質した党内体制による指導の混乱もあってドイツで労働者階級 の革命、即ち社会主義体制の成立が訪れることはなかったが、第二次世界大戦 後にドイツ共産党とドイツ社会民主党 が合併し創設されたドイツ社会主義統一党 が、ソビエト連邦 の衛星国 として建国されたドイツ民主共和国 の一党独裁政党となりドイツの東側を支配した。
脚注
^ 樹立を宣言しただけで、実際に国として承認した国はなく、実効性のある政府の発足にも至っていない。
^ 正式名称は帝政時代と変わらずドイツ国 (Deutsch Reich)。ドイツ語の Reich は「帝国」と訳されることが多いが、実際には「大きな領域を持つ国」を表し、政体 が帝政 であるかどうかを問わない。詳細はライヒ を参照。
参考文献
木村靖二・成瀬治・山田欣吾(編)『ドイツ史 3』山川出版社 〈世界歴史大系〉、1997年7月。
木村靖二(編)『ドイツ史』山川出版社〈世界各国史13〉、2001年8月。
関連項目