デイヴィッド・アンドリュー・プラット(David Andrew Platt, 1966年6月10日 - )は、イングランド・グレーター・マンチェスター州チャダートン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。イングランド代表では1993年から1996年にかけてキャプテンを務め、得点力の高いオフェンシブハーフとして活躍した[2]。キャリア初期はFW[2]。
クラブ経歴
マンチェスター・Uのユースチームで育つが、当時トップチームの監督であったロン・アトキンソンがトップでプレーするレベルにないと判断したたため、4部のクルーに放出される[2]。FWとしてクルーで得点を量産し、1988年に当時2部のアストン・ヴィラFCへとステップアップ移籍を果たした[2]。チームは1シーズンで1部に昇格、1989-90シーズンには、19得点を挙げ、PFA年間最優秀選手賞とPFA年間ベストイレブンに選出され、代表チームからも召集を受けるようになった[2]。
1991-92シーズン、セリエAのASバーリに移籍、チームはこのシーズン、ズボニミール・ボバン、ロベルト・ヤルニも獲得したが、最終的に15位と振るわなかった[2]。個人としては、29試合11ゴールを挙げる活躍により、1992-93シーズンからはユヴェントスFCに移籍するも、外国人枠の問題で出場は限られた。またチームはUEFAカップ優勝を果たすが、決勝では2戦とも起用されなかった[2]。
1993-94シーズンからはUCサンプドリアに移籍、ロベルト・マンチーニ、ルート・フリットのツートップの後方でプレーすると、真価を発揮しチームを牽引[2]。2シーズンでリーグ戦55試合17ゴールを挙げる活躍をした。1993-94シーズンのリーグ戦では、開幕のナポリ戦でいきなり移籍後初得点を決めた[2]。優勝は逃したが、ACミランと終盤まで優勝争いを繰り広げ、リーグ3位に入った[2]。コッパ・イタリアでは準決勝パルマとの第1戦でバイシクルシュートで得点を決めるなどの活躍で決勝進出に貢献、決勝でアンコーナを破って優勝した[2]。このシーズンの公式戦では39試合で11得点、翌1994-95シーズンの公式戦通算では33試合で10得点を決めた[2]。
その後、アーセナルFCに移籍、エマニュエル・プティの加入後、先発出場は限られたが、1997-98シーズンにはプレミアリーグ優勝とFAカップの2冠獲得に貢献した。翌シーズンはノッティンガム・フォレストFCに移籍、選手兼監督としてプレーしたが[3]、怪我のため、殆どプレー出来ないまま引退した。
代表経歴
1989年11月15日のイタリアとの親善試合で代表デビューを果たした[2]。1990 FIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のベルギー戦では、延長後半終了直前にFKからのロングボールを振り向きざまにボレーシュートで決め[3]、準々決勝のカメルーン戦でも1得点、3位決定戦のイタリア戦でも1得点と、大会合計3得点を決めた[2]。
1992年のユーロでもレギュラーとして3試合でプレー、グループリーグ最終節のスウェーデンとの対戦で1得点を決めたが、チームはグループリーグを勝ち上がれなかった。1994年のワールドカップ予選では、1993年2月17に対戦してサンマリノ戦で4ゴールを決めるなど、予選通算7得点を決めたが、本大会への出場を逃した。1996年のユーロでは4試合に出場した[4]。
指導者
2010-11シーズンより、ロベルト・マンチーニ率いるマンチェスター・シティFCのコーチングスタッフとして入閣[5]。2012-13シーズンからはアシスタントコーチを務めたが、マンチーニ解任後の2013年5月14日に自身もエティハド・スタジアムを去った[6]。2015年5月27日、ISLに所属するFCプネー・シティの監督に就任することが発表された[7]。
個人成績
クラブでの成績
代表での成績
- 出典
イングランド代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1989 |
2 |
0
|
1990 |
12 |
4
|
1991 |
11 |
3
|
1992 |
10 |
5
|
1993 |
10 |
8
|
1994 |
5 |
4
|
1995 |
5 |
2
|
1996 |
7 |
1
|
通算 |
62 |
27
|
タイトル
- クルー
- ユヴェントス
- サンプドリア
- アーセナル
脚注
外部リンク