テューダーミンストレル (Tudor Minstrel) はイギリスの競走馬および種牡馬。馬名は「テューダー王家の吟遊詩人」の意。
経歴
スコッチウィスキー醸造業者である第2代フォーティビオット男爵ジョン・アーサー・デュワーの持つ、ホームストール牧場で生産されたサラブレッドの牡馬である。デュワー所有のもと、フレッド・ダーリン調教師のもとに預けられて競走馬となった[1]。
2歳になった1946年にデビュー、バース競馬場で初勝利を挙げると、続いてソールズベリー競馬場でも勝利した。次いでアスコット競馬場のコヴェントリーステークスに登録されると、これを4馬身差で完勝した。さらに7月のサンダウンパーク競馬場で行われたナショナルブリーダーズプロデュースステークスでも4馬身差で勝利し、この年を4戦4勝で終えた。同年のフリーハンデキャップにおいて、テューダーミンストレルは133ポンドの評価を与えられ、世代トップと目されていた。
1947年、3歳シーズンの始動はバース競馬場での一般戦でこれに勝利し、続くニューマーケット競馬場での2000ギニーでは11/8(単勝約2.38倍)のオッズで1番人気に推されていた。ゴードン・リチャーズ鞍上で迎えたこの競走で、テューダーミンストレルは2着サラヴァン、3着サヤジラオに8馬身差をつけての圧勝を見せつけた[2]。この着差は20世紀の同競走における着差レコードであり、「もし鞍上のゴードンが途中で手綱を緩めなければ20馬身はちぎっていたのではないか」「世紀の名馬だ」などと報道された[3]。
エプソムダービーにおいて、テューダーミンストレルは4/7(単勝約1.5倍)という断然の1番人気に支持された。当日のエプソム競馬場は寒く湿った天気ながらもおよそ40万人の観客が詰めかけ、国王ジョージ6世および王妃も参席していた。ダービーの12ハロンという距離はテューダーミンストレルは未経験で、このためスタミナに疑問視もされたが、血統的にステイヤーであると見られ、一部では「荷車を引かせても勝てる」とまで言われていた[4]。しかしテューダーミンストレルは先行することに失敗すると、そのまま先頭に立てず力尽き、単勝41倍の穴馬パールダイヴァーが優勝するなか4着と初の敗北を喫した[5]。
6月下旬、テューダーミンストレルはマイル戦のセントジェームズパレスステークスで競走に復帰し、これを楽勝した。その後10ハロンのエクリプスステークスに挑戦したが、ミゴリ相手の2着と敗れた[6]。秋にはクイーンエリザベス2世ステークスの前哨戦であるナイツロイヤルステークスに出走し、ペティションやザバグといった強豪馬を破って優勝している。この競走がテューダーミンストレルの最後の競走になった。
競走成績
当時グループ制なし。
- 1946年(4戦4勝)
- ランズダウンステークス、ソールズベリーステークス、ブリーダーズプロデュースステークス
- 1947年(6戦4勝)
種牡馬入り後
テューダーミンストレルは現役中に10万ポンドのシンジケートが組まれており、引退の翌年から故郷のホームストール牧場で種牡馬として活動し始めた[1]。1958年にレスリー・コムズ2世を代表とするシンジケートに購入されてアメリカ合衆国に渡り、スペンドスリフトファームで1970年まで種牡馬を続けていた[1]。その後1971年に同地で死亡した[1]。
テューダーミンストレルは英米ともに産駒に恵まれ、アメリカジョッキークラブの調べによれば産駒486頭のうち291頭が勝ち上がり、34頭がステークス競走で勝利したとある[1][注 1]。代表的な産駒には、アメリカでケンタッキーダービーに優勝したトミーリーなどがいる。
代表産駒
ほか多数
血統表
脚注
注釈
- ^ 資料によってステークス勝ち馬の数はばらつきがあり、『Peerage of Racehorses』では43頭、また『Great Thoroughbred Sires of the World』では44頭とある[1]。
出典
外部リンク