テュレンヌ (Turenne 、オック語 :Torèna )は、フランス 、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 、コレーズ県 のコミューン 。
地理
村はジュラ紀 に生じた丘の上に腰掛けるようにしている。コレーズ県の南部にあり、ロット県 から3キロメートルしか離れておらず、西のペリゴール 地方とはわずかの距離である。
小山は広大な窪地に囲まれており、東側は中央高地 の一部であるメサックの断層が境となっている。太古の昔、この地は海の底であった。この時代を示す証拠はわずかであるが、村のふもとと城のふもとにイタヤガイ科 のコキーユ・ド・サン・ジャック(fr )の化石が見つかっている。
トゥルマントル谷を見下ろす丘は、リモージュ 、ブリーヴ=ラ=ガイヤルド 、カオール 、トゥールーズ へと向かう古い道路を管理下に置いていた。
歴史
19世紀に撮影されたセザールの塔
町並み
9世紀、最初のテュレンヌ領主が現れる[ 2] 。十字軍 をきっかけに真の封建的な「国」となるが、その後14世紀にフランス有数の砦城となる。テュレンヌ子爵は中世から18世紀まで、完全な自治を謳歌した。1738年まで、代々の子爵たちは国王に対して単純な臣従を求められ、真の支配者として税を免除されていた。彼らは三部会 を開き、税を徴収し、通貨を打ち出し、貴族の称号を与えた。子爵領は国家の中の国家であった。王が国内でのタバコ栽培を禁止すると(1560年にアキテーヌ に栽培が導入されていた)、対照的に子爵領では禁止令が適用されなかった。
テュレンヌ子爵の領土は、3つの地方と3つの司教区を占めていた。ペリゴール・ノワール地方に隣接し、初期から低リムーザンとケルシーから構成されていた。特に、リムーザンの高原とケルシーの高原との間のウシの移牧が管理されていた。15世紀にその領地は最大となり、北から東はメマックからラプロー周辺まで広がり、西はテラソン(現ドルドーニュ県 )、南はグラマ(現ロット県)まで達していた。
この時代の子爵領の要塞化された有力都市は、アルジャンタ 、セルヴィエール、ボーリュー 、ギャニャック、マルテル、サン・セレ、そしてテュレンヌであった。ブルテヌーやピュイブランのバスティッド(fr )、カランナック、ヴァイラック、キュルモント 、メサック、そしてコロンジュ の町も城壁で取り囲まれていた。
子爵領には18500世帯の約10万人の住民がおり、111の教区、1200の村、多くの大修道院に分かれていた。
テュレンヌ子爵を継承したのは4つの家系だった。9世紀から13世紀まで支配したのは、ヴェゼール川谷出身のコンボルン家である。彼らは積極的に十字軍 や仏英戦争に関わり、フランス王から多大な特権を獲得した。しかしその後、14世紀初め、ピレネーの封建大領主であるコマンジュ伯家が子爵領を継承した。94年間、ローマ教皇 クレメンス6世 の甥孫でグレゴリウス11世 の甥にあたる、ロジェ・ド・ボーフォールの家系が子爵となった。この家系から2人の子爵が輩出された。ギヨーム3世・ロジェ・ド・ボーフォール(fr )、レーモン・ド・テュレンヌ(fr )である。そして、自らが子爵となった女性継承者、アントワネット・ド・テュレンヌ、エレオノール・ド・ボージューがいた。
1444年から1738年まで、子爵領の支配者はラ・トゥール・ドーヴェルニュ家であった[ 3] 。アンリ・ド・ナヴァール(のちのアンリ4世 )と同じ新教徒で仲間であったアンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(fr )はブイヨン公およびスダン公となり、彼の時代に最盛期を迎えた。アンリの次男で同名のアンリ はフランス元帥 となり、『大テュレンヌ』(grand Turenne)と呼ばれた。
ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家のもとで、子爵領は宗教改革 を経験した。ドルドーニュの船乗りたちによってカルヴァン主義 が地域に拡散していった。サン・バルテルミの大虐殺 の後の1575年、アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュはアンリ・ド・ナヴァールのもとに馳せ参じた。テュレンヌは、ユグノー戦争 とフロンドの乱 の舞台となった。
1738年5月8日、テュレンヌをルイ15世 が買い上げた。ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家最後の子爵、シャルル=ゴドフロワ(fr )が賭け事の負債を支払うために売ったのである。このようにして、フランス最後の半独立の砦は終焉を迎えた。子爵領の領民はルイ15世の徴税の対象となり、王は砦城の解体を命じた。
フランス革命 時代、もはやテュレンヌに王家の憲兵隊は置かれなくなった。また、国民公会 のデクレによってコミューンはモン=フラン(Mont-Franc)と改名させられていた。
小さな村、ジュジャル=ナザレートにはセザール塔がある。ノートルダム・ド・ナザレート礼拝堂は13世紀のベルギーの本で言及されており、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 上の停留地として推奨されている。ナザレートはテュレンヌに長く属していたが、19世紀にジュジャルと合併した。
人口統計
1962年
1968年
1975年
1982年
1990年
1999年
2006年
2011年
743
705
699
718
740
742
795
781
参照元:1999年までEHESS[ 4] 、2004年以降INSEE [ 5] [ 6]
脚注