19世紀の終わりまでにはキーツは英文学のキャノンとなり、ラファエル前派の文人たちに大いなる影響を与えた。1888年版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』は彼のオードの一つを「究極的傑作のひとつ」と呼んだ。キーツは、特にその一連のオードで「官能性に満ちた」スタイルを持っていた。ロマン主義者の特徴として、彼は自然のイメジャリーを通して感情の極致を強調した。今日、彼の詩と書簡は英文学の中で最も人気があり、数多く解析されてきており、とりわけ「ナイチンゲールへのオード」 "Ode to a Nightingale", 「ギリシャ壺についてのオード」"Ode on a Grecian Urn", 「眠りと詩」"Sleep and Poetry" そしてソネット「初めてチャップマンのホーマーを読みて」 "On First Looking into Chapman's Homer" がよく読まれている。
1817年の春、ジョンはワイト島へ1週間ほどの旅行に出かけた。同年、処女詩集『詩集』(Poems by John Keats)を出版した。1818年、スコットランドを旅行したが、ハムステッドに戻った後ファニー・ブローン(en:Fanny Brawne)と知り合い翌年非公式ながら婚約を交わす。同年これに先立ち、彼はスコットランドに旅立つ前に、巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を出版したが、評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼は、Charles Armitage Brownに誘われ旅立ち湖水地方からスコットランドに入りアイルランドにも短期間渡り、スコットランドのハイランド地方に入るとマル島やアイオナ島、フィンガルの洞窟で有名なスタッファ島にも渡ったが、この頃から結核の兆候となる喉の不調が目立つ。ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス山頂にも立ったが、喉と体調の不調がひどくなりインヴァネスから船でロンドンに戻った。弟トムはこの後1818年12月1日に母と同じ結核で死去。
1819年には、『秋に寄せて』(To Autumn)、『ギリシャの古壺のオード』(Ode on a Grecian Urn)などの代表的オードが次々と発表された。しかしジョンの病状は好転せず、彼はファニーとの結婚を諦める。更に彼の病いは悪化し、医者の勧めでイギリスの冷たい空気をさけ、イタリアで療養することになった。イタリアでの住まいはローマのスペイン広場の近くであった。友人の手厚い看護を受けながら、ジョンは1821年2月23日、25歳で死去。ローマの新教徒墓地に葬られる。彼の遺言により、墓石には「その名を水に書かれし者ここに眠る("Here lies one whose name was writ in water")」と彫られている。
ちなみに、詩の作中の一節"Unweave a rainbow"(「(学問が)虹をばらばらにする」)は、リチャード・ドーキンスがUnweave the Rainbow(『虹の解体』)と自著の題名にした。ドーキンスは、この本でキーツに代表される文学者の科学に対する否定的見解に反駁して、科学の発展は宇宙に対する"センス・オブ・ワンダー"(驚嘆する精神)を生み、それこそが詩情の源泉となる、と説いている。