シャイフ・ハサン(? - 1343年)は、チョバン朝の創始者(在位:1340年 - 1343年)。
来歴
イルハン朝を支えた重臣・チョバンの子・ティムール・タシュ(英語版)の子である。1327年に祖父と父がアブー=サイードに粛清された後、チョバン家の当主となった。1335年にサイードが死去してイルハン朝が事実上断絶すると、ハサンはイルハン朝の傍流であるサティ・ベク(英語版)やスライマーン(英語版)らを傀儡として擁立し、自らはその後ろ盾として巧みに勢力を拡大した。
チョバン家はイルハン朝の軍事力として同王朝を支えた名族だったため、その潜在力は高かった。そのためイルハン朝断絶後に同じくルーム地方で勢力を拡大していたジャライル部のタージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグと対立・抗争を繰り広げたが、ハサンはこれに常に勝利した。特に1338年の戦いではブズルグが擁立していたムハンマドを敗死に追い込み、さらにブズルグ配下の諸将を謀略をもって大量に離反させるなどして(もともとチョバン家の名望が高かったため、それを利用したという)、アゼルバイジャンなど現在のイラン方面の覇権を完全に確立し、ブズルグを現在のイラク方面に追いつめた。またサティ・ベクが実権回復を狙ってクーデターを起こしたときにはブズルグと一時的に講和して彼女の側近を粛清して彼女を追放し、後釜を擁立するなどして内部固めを行なうなど、政治手腕に巧みな人物だった。
イラク方面でブズルグが勢力を確立したのをみて、その征服を目指して遠征を開始したが、1343年に陣中で暗殺された。自身の妻によって暗殺されたといわれている。
名君の死でチョバン朝は急速に統一を失い、彼の死後には弟のアシュラフが継いだが、衰退・分裂が留まることは遂に無かった。
なお、シャイフ・ハサンと抗争してイラク地方にジャライル朝を築き上げたタージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグも本名をシャイフ・ハサンという。このため混同を避けるため、タージュを大ハサン、シャイフを小ハサンであるといわれている。