クンフタ・ウヘルスカー(チェコ語: Kunhuta Uherská, 1246年 - 1285年9月9日)は、ボヘミア王オタカル2世の2人目の王妃。ハンガリー語名はクニグンダ(Kunigunda)、ドイツ語名はクニグンデ・フォン・ウンガルン(Kunigunde von Ungarn)。父方の家名をつけてクンフタ・ハリチスカー(チェコ語: Kunhuta Haličská、ハーリチのクンフタ)と呼ばれることもある。
生涯
父ロスチスラフはキエフ・ルーシの公族(キエフ大公ミハイル2世の子)で、母はハンガリー王ベーラ4世の長女アンナ(英語版)。ロスチスラフの一家は国を追われた後、外祖父ベーラ4世の宮廷に迎えられ、スラヴォニア公の地位を与えられた。このためクニグンダはハンガリー王族とみなされ、ウヘルスカー(チェコ語: Uherská、ハンガリーの)の家名で呼ばれている。
1261年にオタカル2世と結婚し、1男2女を儲けた。
1278年、マルヒフェルトの戦いでオタカル2世がローマ王ルドルフ1世の軍に敗れて戦死すると、ボヘミアの領土は縮小し、プラハ周辺の州を保持するだけになった。幼少のヴァーツラフ2世を抱えて摂政となったクンフタは、ルドルフ1世の圧力と戦いながら国政の舵取りを迫られ、ヴァーツラフ2世とルドルフ1世の六女ユディトとの婚約を成立させた。
1284年、ボヘミアのマグナートであるザーヴィシュ・ズ・ファルケンシュテイナ(チェコ語版)(1290年刑死)と再婚したが翌年に死去、アネシュスキー修道院(チェコ語版)に埋葬された。