クレメンス1世 (ラテン語 : Papa Clemens I )もしくはローマのクレメンス (ラテン語 : Clemens Romanus , ギリシア語 : Κλήμης Ρώμης , ? - 101年 ?)は、初代教会 時代のローマ司教 。のちにローマ教皇 の第4代として列せられている(在位:91年 ? - 101年 ?)。英語名(Clement)からクレメント と呼ばれることもあり、また日本正教会 では教会スラヴ語 再建音からクリメント と転写される。
使徒教父 の一人。カトリック教会 、正教会 、聖公会 、ルーテル教会 などで聖人 。カトリック教会での記念日は11月23日 。正教会での記憶日は12月8日 (修正ユリウス暦では11月25日 )。
正教会では神品致命者 ロマの「パパ」クリメント (ロマの「パパ」=ローマ教皇 のこと、鉤括弧は原文ママ)として記憶される[ 1] [ 2] 。
概説
碇を結び付けられて海に沈められて殺されるクレメンス(1726年 作、Pinacoteca Vaticana)
史実の裏づけはないが、伝承ではペトロ を直接知る人物であり、パウロ の書いた「フィリピの信徒への手紙 」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。
彼の手によるといわれる「クレメンスの第一の手紙 」(96年 )はコリントス の教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。
伝統的にクレメンスに帰された「クレメンスの第二の手紙 」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。
死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように殉教 したと推測される。ローマ帝国 の版図となっていたクリミア半島 のケルソネソス で致命 したという伝承があり[ 3] 、既にキリスト教 が黒海 沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域におけるキリスト教 は、ルーシ 内陸部にまでは定着しなかったとされる[ 4] 。
この頃はまだ、ニカイア公会議で決議された三位一体について定式化されていない。しかし、三位一体の初期形体は、1世紀の終わり頃に、クレメンスが書いた書簡の中に現れているとする説もある。彼は、キリスト教徒のコミュニティの一部に堕落が存在する理由について尋ねている。
「私たちにはひとりの神、ひとりのキリスト、私たちに恵みを注がれたひとりの霊があるではありませんか。キリストにあって召しはひとつではありませんか?」(クレメンスの手紙1。46:6)[ 5] [ 注釈 1] と書いている。
ただしクレメンス自身は「熱烈な祈りと請願をもって、宇宙の創造者が最愛のみ子イエス・キリストを通し、全世界にいるご自分の選民の過不足のない数をそのままに保たれることを懇願します。あなたが唯一の神であられ、イエス・キリストがみ子であることをすべての国民が理解しますように」と述べ、父を唯一の神とし、イエスが神に遣わされた者であるとの理解であった[ 6] 。
脚注
注釈
^ The Apostolic Fathers. Vol. 1の中で、Eharmanは、「クレメンスは Ephesiansの4:4-6で三位一体の形式をほのめかしている」と述べている。さらに 1 Clement 58:2も参照。
出典
^ 出典:『聖事經』日本ハリストス正教会 教団、明治28年初版、平成5年再版
^ ロマの聖クリメントを七十門徒 の聖クリメントと同一視する説もあるが、普通、正教会では七十門徒の聖クリメントと同一人物とは看做されない。七十門徒のクリメントは使徒パウェル(パウロ )の弟子であり、本記事で扱っているクリメントは使徒ペトル(ペテロ )の弟子である。(出典:武岡武夫編『七十徒小伝』発行者:及川信・名古屋ハリストス正教会 、1987年4月19日版)
^ 『諸聖略伝 十二月』71頁、日本ハリストス正教会 府主教庁(2004年1月発行)
^ 黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)
^ Ehrman, Bart D. (2003). The Apostolic Fathers. Vol. 1 . Loeb Classical Library
^ The Library of Christian Classics Volume1, Early Christian Fathers, by Cyril C.Richardson.page70
外部リンク