クラウス・ワラス(Klaus Wallas、1953年3月31日 - )はオーストリアの柔道選手、プロレスラー。ザルツブルク州ツェル・アム・ゼー郡出身。
柔道時代の階級は重量級。得意技は足技[2][3][4]。プロレス転向後は地元のオーストリアやドイツを主戦場に活動した。
来歴
柔道家時代
1972年のヨーロッパジュニア軽重量級で優勝[3]。その後、階級を重量級に上げると、1976年にはフランス国際で3位に入賞した[3]。この大会の準決勝で、当時東海大相模高校3年生だった山下泰裕と対戦[5]。得意の足技である小内刈で効果を取った後、出足払で主審から一旦は「一本」を宣せられたが、2名の副審が「技あり」と訂正したため勝利は取り消され、横四方固で逆転の一本負けを喫した[5]。なお、対外国人選手116戦無敗の山下から技でポイントを挙げたことのある外国人は、このワラスの他に、それぞれ効果を取ったソビエトのアレクセイ・チューリンとフランスのローラン・デル・コロンボの3名しかいない[2][4]。
同年のモントリオールオリンピックでは重量級と無差別級の2階級にエントリーしたが、重量級では3回戦でアメリカのアレン・コージに谷落の有効で敗退。無差別でも3回戦でアルゼンチンのホルヘ・ポルテリに崩上四方固で敗れた[2]。世界軍人選手権大会では重量級で2位、無差別で3位の戦績を収めている[3]。
プロレス転向後
1978年にプロレスラーに転向すると、ドイツのローラン・ボックが日本からアントニオ猪木を招聘してプロモートした欧州世界選手権シリーズ "Inoki Europa Tournee 1978(イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978)" に出場[5]。ツアーではミレ・ツルノやジョニー・ロンドス、猪木に同行していた藤原喜明らと対戦し、ウィレム・ルスカとの柔道ジャケットマッチも行われた[6]。
1983年にはオイゲン・ウィスバーガーを破り欧州ヘビー級王座を獲得[5]。同年はハノーバー・トーナメントにおいてもアクセル・ディーターと同率で優勝[7]
。1984年にはオットー・ワンツ、スティーブ・ライト、エド・ウィスコスキー、ボブ・ダラセーラなどを抑えて単独優勝を果たした[5]。
1985年2月、全日本プロレスに初来日。タッグマッチではハーリー・レイスやブルーザー・ブロディのパートナーに起用され、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビとも対戦した[8]。1986年5月には新日本プロレスのIWGPリーグ戦に参戦[9]。予選リーグでは猪木、藤原、坂口征二、木村健吾、アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースターと対戦したが、6戦全敗とジョバー役を務めるにとどまった[4]。一方で、同年のワールド・ストロンゲストマン・コンテストでは6位入賞を果たしている[4]。
その後、欧州では地元オーストリアのCWAにおいて、1986年7月から9月にかけてブル・パワーとの連戦が行われたが、同年に現役を引退[6]。以降は単発的にリングに上がり、1991年10月10日にウィーンで開催されたイベントではアイアン・マイク・シャープから勝利を収めた[10]。1992年12月1日にブレーメンで行われたCWAのショーではマッド・ブル・バスター(ピットブル2号)とタッグを組み、ランボー&フランツ・シューマンと対戦している[11]。
主な戦績
柔道
プロレス
脚注
外部リンク