キタイ(? - 1296年)とは、キプチャク部出身で、13世紀に大元ウルスに仕えた人物。『元史』などの漢文史料では乞台(qǐtái)と記される。
概要
オルジェイトゥはキプチャク草原に住まうキプチャク部の出身で[1]、1287年(至元24年)にはキプチャク人ばかりを集めた軍団である「欽察衛」の百人隊長に任じられた。同年には東北地方においてナヤン・カダアンの乱が勃発しており、キプチャク軍団長のトトガクに従って叛乱鎮圧に参加したキタイは功績を挙げ千人隊長となった。その後もアルタイ方面で中央アジアを支配するカイドゥ・ウルスの軍勢と戦ったが、1296年(元貞2年)に病で亡くなった[2]。
キタイの死後は息子の哈賛赤が跡を継ぎ、トトガクの息子チョンウルの指揮下にあって父同様にモンゴル帝国の内戦で活躍した[3]。
脚注
- ^ 『元史』の列伝では「察台氏」となっているが、屠寄の『蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下などはこれを「欽察台氏」の書き損じとする
- ^ 『元史』巻135列伝22乞台伝,「乞台、察台氏。至元二十四年為欽察衛百戸、従土土哈征叛王失烈吉及乃顔有功、賜金符、陞千戸。従征忽剌出、戦于阿里台之地。元貞二年、以疾卒」
- ^ 『元史』巻135列伝22乞台伝,「子哈賛赤襲職、従創兀児于魁烈児之地、与哈荅安戦有功。大徳五年、従戦杭海。従武宗親征哈剌阿荅。復従創兀児征不別・八憐、為前鋒、以功受賞賚。皇慶二年、授金符、為千戸。明宗居潜邸、延祐四年命従西征、与禿満帖木児戦于失剌塔児馬失之地、以功復受厚賞、居其地十五年。天暦二年、賜金符、授昭勇大将軍・同知大都督府事。卒」
参考文献