シュヴァルツェンベルク外相(2007年5月12日)
カレル・シュヴァルツェンベルク [ 1] (チェコ語 : Karel Schwarzenberg 、1937年 12月10日 - 2023年 11月11日 )は、チェコ の政治家。外務大臣(2回)、第一副首相、TOP 09 党首などを歴任した。
ボヘミア 有数の大貴族だったシュヴァルツェンベルク侯家 の家長(1979年 - 2023年)であった[ 2] 。ドイツ語 の全名はカール・ヨハンネス・ネポムク・ヨーゼフ・ノルベルト・フリードリヒ・アントニウス・ヴラティスラウ・メナス・シュヴァルツェンベルク (Karl Johannes Nepomuk Joseph Norbert Friedrich Antonius Wratislaw Menas Schwarzenberg )。伝統的な貴族称号を重んじてシュヴァルツェンベルク侯 (Karl(VII.) Johannes Fürst zu Schwarzenberg )と呼ばれることもある[ 3] [ 4] 。
経歴
弟系シュヴァルツェンベルク侯家家長カール (チェコ語版 ) (Karl(VI.) Schwarzenberg 、1911年 - 1986年)と、その妻のフュルステンベルク侯女アントーニエ (チェコ語版 ) (Antonie Prinzessin zu Fürstenberg 、1905年 - 1988年)の間に長男(第2子)として生まれた。1948年に共産党 のクーデター が起きると、家族で国外に亡命し、スイス 国籍を取得してオーストリア に移住した。このためチェコスロバキア とスイスの二重国籍者となった[ 5] 。ウィーン大学 とグラーツ大学 で法学 を、ミュンヘン大学 で林学 を学んだ[ 6] 。
1960年代より保守派のオーストリア国民党 の党員として活動し、同党内ではシュヴァルツェンベルクを将来の外相候補に推す声も挙がった[ 7] 。その後、出身国チェコスロバキアの共産党独裁体制に対する抗議活動や人権擁護活動に活動の重点を移した。1984年から1991年まで、人権のための国際ヘルシンキ委員会 (英語版 ) の委員長を務め、1989年にヨーロッパ人権賞 (英語版 ) を受賞した。同年末にビロード革命 が起きてチェコスロバキア共産党の独裁が終わると、同国に帰国した。
1990年7月から1992年7月にかけて、チェコ大統領 ヴァーツラフ・ハヴェル の大統領府長官を務めた。ハヴェルとは長年の友人で、ハヴェルが1996年に笹川陽平 とともに創設したフォーラム2000 (英語版 ) のメンバーにも名を連ねた。2004年11月にはプラハ第6区選出の元老院議員に就任した。2005年5月、ドイツ連邦議会 議員アルノルト・ヴァーツ (ドイツ語版 ) と一緒にキューバ を訪れた際に反体制派と会合を開こうとしたため、キューバを追い出された[ 8] 。2006年に元老院の外交・防衛・安全保障委員会委員長を務めた。
2007年1月から2009年5月まで、第2次ミレク・トポラーネク 内閣の外務大臣を務めた。緑の党 がシュヴァルツェンベルクを外相に指名した時、大統領ヴァーツラフ・クラウス がシュヴァルツェンベルクはオーストリアと強い結びつきがあり、国益を守る人物として不足があると反対したため、騒動が起きている[ 9] [ 10] 。2009年上半期には欧州連合理事会議長国 担当閣僚となった。同年、ミロスラフ・カロウセク (英語版 ) とともに新党「伝統・責任・繁栄09(TOP 09)」を結党し、2010年チェコ議会下院選挙 で総投票数の16%を獲得した。同党が下院の第3勢力となり、3党による中道右派のペトル・ネチャス 連立政権において、第一副首相兼2度目の外務大臣に就任した。またこの選挙でシュヴァルツェンベルクは元老院から代議院(下院)へと鞍替えした。
2011年10月6日から8日にかけ、日本 を公式訪問した[ 11] 。外務大臣玄葉光一郎 ら政府要人と会談したほか、皇太子徳仁親王 にも謁見している[ 11] 。東日本大震災 で深刻な被害を受けた宮城県 と福島県 を訪れ、福島県には線量計 10基を贈呈した[ 11] 。福島県で活動するカトリック教会 には、チェコで崇敬を集めるプラハの幼きイエス像 (英語版 ) のレプリカを贈った[ 11] 。
2013年の大統領選挙 に立候補し、1月11日から12日にかけて行われた投票の結果、得票率23%で2位となり、1位のミロシュ・ゼマン 元首相(得票率24%)とともに1月25・26日投票の決選投票に進んだ[ 12] が、得票率45.19%で敗れた。2013年7月にネチャスが側近の汚職で退陣し、シュヴァルツェンベルクも第一副首相と外務大臣を退任した。
2023年11月11日、85歳で逝去[ 13] [ 14] 。
家系・家族
1804年以来、シュヴァルツェンベルク侯家は兄系(1. Majorat )と弟系(2. Majorat )の2系統に枝分かれしていた。しかし兄系の最後の世代の男子相続者、アドルフ (1890年 - 1950年)、ヨーゼフ(1900年 - 1979年)およびハインリヒ(1903年 - 1965年)の3人には男子が無かった。1960年、弟系の次期家督相続者であるシュヴァルツェンベルクがハインリヒ侯子と養子縁組し、1979年にヨーゼフ侯子が亡くなると同時に兄系の家督を継いだ。これにより、シュヴァルツェンベルク侯家は一本化された。
1967年4月22日にゼーフェルト において、旧伯爵家出身のテレーゼ・ハルデッグ(Therese Hardegg /Therese Gräfin zu Hardegg auf Glatz und im Machlande 、1940年 - )と結婚したが、1988年に離婚、そして2008年に復縁した[ 15] [ 16] 。夫妻の間には以下の2男1女がいる。
叙勲・栄典
脚注
^ 他の日本語 表記としてはカレル・シュワルツェンベルグ などがある。
^ Schwarzenberg talks election . The Prague Post (1937-12-10). Retrieved on 6 July 2011.
^ Schwarzenberg . Angelfire.com. Retrieved on 6 July 2011.
^ 正式な貴族称号はシュヴァルツェンベルク侯、ズルツ伯、クレットガウ方伯(諸侯格)およびクルマウ公(12. Fürst zu Schwarzenberg (1. Majorat) und 7. Fürst zu Schwarzenberg (2. Majorat), Graf zu Sulz, gefürsteter Landgraf im Klettgau und Herzog zu Krummau )だが、法的には無意味なものとなっている。
^ Velinger, Jan (18 January 2007). “Rozhovor pro časopis Instinkt” . Instinkt . http://www.karelschwarzenberg.cz/rozhovor-pro-casopis-instinkt.html 5 January 2009 閲覧 . "'Jak je to s vaším občanstvím – máte české a švýcarské?' 'Oboje od narození.' (In English: 'What about your citizenship – you have both Czech and Swiss ones?' 'I have both since I was born.')"
^ Karel Schwarzenberg | Government of the Czech Republic . Vlada.cz. Retrieved on 6 July 2011.
^ Paul Lendvai, Mein Österreich – 50 Jahre hinter den Kulissen der Macht , 4th ed., Ecowin Verlag, 2007, ISBN 3-902404-46-9 , p. 89
^ EU politicians expelled from Cuba , BBC.co.uk, 20 May 2005, retrieved 16 October 2009
^ Klaus, Václav (28 December 2006). “Senátor Schwarzenberg sedí na dvou židlích” (Czech language ). euPortál . http://www.euportal.cz/Articles/1152-senator-schwarzenberg-sedi-na-dvou-zidlich.aspx 5 January 2009 閲覧 . "Asi se shodneme na tom, že každý náš ministr zahraničí musí jasně, ostře a z vlastního přesvědčení zastávat a hájit zájmy, postoje a priority České republiky. Obávám se však, že něco takového není možné – ale nijak ho za to nekritizuji – očekávat od člověka, který je s naší zemí (...) spojen pouze menší částí svého života. (はっきりと強く心からチェコ共和国の国益、主張、優先権を守ろうとする人物なら誰でも外務大臣として承認する。[本人の意志ではないとはいえ]祖国に暮らした時間が大概の人より短い人物に、[彼を非難する気は無いが]こうした義務感を期待することは出来ない。)"
^ Velinger, Jan (27 December 2006). “Who's afraid of Karel Schwarzenberg?” . Český rozhlas 7 . http://www.euportal.cz/Articles/1152-senator-schwarzenberg-sedi-na-dvou-zidlich.aspx 5 January 2009 閲覧。
^ a b c d カレル・シュヴァルツェンベルク第一副首相兼外務大臣の日本訪問 、チェコ共和国大使館公式HP、2010年10月11日
^ “チェコ大統領選、元首相と外相の決選投票に” . 読売新聞 . (2013年1月13日). https://web.archive.org/web/20130116094452/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130113-OYT1T00496.htm 2013年1月13日 閲覧。
^ “Former foreign minister who steered Czechia's Western integration dies at 85 ” (英語). news.expats.cz (2023年11月12日). 2023年11月12日 閲覧。
^ “'True European': Former top Czech diplomat Schwarzenberg dies” . ロイター . (2023年11月12日). https://jp.reuters.com/article/people-schwarzenberg-idAFKBN32703I 2023年11月13日 閲覧。
^ Royals Portal MAG 2008, by Petra
^ news.at . news.at (2008-08-13). Retrieved on 6 July 2011.
^ Descendants of Emmanuel, Graf von Mensdorff-Pouilly (1777–1852) . Wargs.com. Retrieved on 6 July 2011.
^ IPromi – Fanseite über Promis / VIP / Stars / Prominenten Verzeichnis – Star Lexikon . Ipromi.de. Retrieved on 6 July 2011.
^ Schwarzenberg . Freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com. Retrieved on 6 July 2011.
^ Karl Johannes Fürst zu Schwarzenberg , eingesehen am 2. Januar 2009
^ Eintrag von Karel Schwarzenberg (Webseite CZ) , eingesehen am 2. Januar 2009
^ „Senator Karl Schwarzenberg erhält das Große Silberne Ehrenzeichen am Bande für Verdienste um die Republik Österreich“ , eingesehen am 2. Januar 2009
^ „Tschechischer Außenminister Schwarzenberg erhält das Großkreuz des Verdienstordens der Bundesrepublik Deutschland“ , Auswärtiges Amt 12. Dezember 2008
外部リンク
チェコ語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。