カマラ (Kamala )またはキマラ (Kimala )のリングネーム で知られるジェームズ・ハリス (James Arthur Harris 、1950年 5月28日 - 2020年 8月9日 )は、アフリカ系アメリカ人 のプロレスラー 。アメリカ合衆国 ミシシッピ州 出身(ギミック 上の設定ではウガンダ 出身)。
アフリカ の部族 ギミックの怪奇派レスラーとして、CWA 、WCCW、MSWA 、NWA 、AWA 、WWF 、USWA 、WCW などアメリカの各団体で活躍した[ 1] [ 2] 。日本にもジャイアント・キマラ (Giant Kimala )の名義で度々来日しており、全日本プロレス の常連外国人だったベンジャミン・ピーコック (ボツワナ・ビースト、2代目ジャイアント・キマラ)のオリジナル版ギミックとして知られている[ 3] 。
来歴
初期
プロレスラーになる以前はフロリダ州 で配管工 などの仕事に就いていた[ 4] 。1975年 にミシガン州 に移住し、そこでボボ・ブラジル と出会ったことを機にプロレス入りを決意[ 4] 。ブラジルの友人のプロレスラー、タイニー・ティム・ハンプトンのトレーニングを受け、1978年 に地元ミシシッピ州やルイジアナ州 、オクラホマ州 などミッドサウス一帯をテリトリーとするNWA のトライステート地区でデビューする。
当時はシュガー・ベア・ハリス (Sugar Bear Harris )などのリングネーム を名乗り、大型の黒人ヒール として売り出された。1980年 4月25日にはアラバマ 地区でオレイ・アンダーソン からNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取している[ 5] 。同年下期からはビッグ・ジム・ハリス (Big Jim Harris )の名前でドイツ やイギリス など欧州 に定着。1980年9月から10月にかけてハノーバー で開催されたトーナメントでは、日本から遠征していたキム・ドク や大仁田厚 とも対戦している[ 6] 。当時の日本のプロレス専門誌では「まだ見ぬヨーロッパの強豪」として報じられたこともあった。
1980年代
1982年 にアメリカに戻り、テネシー州 メンフィス のCWA において、ジェリー・ローラー のアイデアにより、ウガンダ の未開部族をモチーフとした新ギミック 、カマラ (Kamala )[ † 1] へ変身する[ 4] 。顔とボディに呪術的なペインティング を施し、槍と楯を手に巨大な木彫の仮面を被って入場、素足に腰布というスタイルで試合を行い、ジャングル の奥地で彼を「発見」したという謎の覆面探検家[ † 2] を通訳 兼任のマネージャー として帯同するなど、奇抜なキャラクターと演出で一躍センセーショナルな存在となった。同年6月7日にはローラーを破り、CWAのフラッグシップ・タイトルだったAWA南部ヘビー級王座を奪取している[ 7] 。
以降、テキサス州 ダラス 地区のWCCW(フリッツ・フォン・エリック 主宰)や古巣でもあるミッドサウス・エリアのMSWA(ビル・ワット 主宰)など、各地の主要テリトリーを転戦。WCCWではフォン・エリック兄弟 (ケビン 、デビッド 、ケリー )、ブルーザー・ブロディ 、ザ・グレート・カブキ 、テリー・ゴディ らと激闘を繰り広げた[ 8] [ 9] 。MSWAでは1983年 2月12日、ルイジアナ州シュリーブポート において、アンドレ・ザ・ジャイアント をボディスラム で投げることに成功している[ 10] 。同年10月3日にはテキサス州フォートワース にて、ハーリー・レイス のNWA世界ヘビー級王座 に挑戦した[ 11] 。
木彫の仮面を被ったカマラ(1987年)
1984年 7月からはWWF に初登場[ 12] 。フレッド・ブラッシー を覆面探検家キム・チー とのダブル・マネージャーに迎え、アンドレとの抗争アングル が組まれるが、待遇面の不満から短期間で離脱している[ 13] 。その後はビンス・マクマホン の全米侵攻に対するNWA &AWA 連合軍(Pro Wrestling USA )の主力メンバーとなり、1985年 7月6日に開催されたグレート・アメリカン・バッシュ の第1回大会ではマグナムTA のNWA USヘビー級王座 に挑戦[ 14] 。AWA圏ではサージェント・スローター やジェリー・ブラックウェル と抗争し、リック・マーテル が保持していたAWA世界ヘビー級王座 にも挑戦した[ 15] 。
1985年8月にはジャイアント・キマラとして、当時全日本プロレス と提携していたジャパンプロレス の自主興行シリーズに初来日。キラー・カーン や長州力 とシングルマッチで対戦した[ 16] 。11月の再来日では全日本プロレスの主力勢との試合も組まれ、シングルマッチでは天龍源一郎 、タッグマッチではジャイアント馬場 &ジャンボ鶴田 の師弟コンビと対戦した[ 16] 。当時はカブキやロード・ウォリアーズ の出現でペイントレスラー が全盛だったこともあり、日本でも注目を集めた[ † 3] 。
1986年 の後半よりWWFと再契約。ザ・ウィザードことキング・イヤウケア をキム・チーとのダブル・マネージャーに、12月26日にニューヨーク のマディソン・スクエア・ガーデン にてハルク・ホーガン のWWF世界ヘビー級王座 に挑戦[ 17] 。1987年 5月のサタデー・ナイト・メイン・イベント ではジェイク・ロバーツ とも対戦し、1988年 からはワイルド・サモアン・シカ との野獣コンビで活動した[ 18] [ 19] 。WWF離脱後の1989年 2月には全日本プロレスに来日[ 20] 。1991年 の再来日ではキマラ2号ことベンジャミン・ピーコック とタッグを組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー を交えたアフリカ軍団を結成した[ 21] 。
1990年代
1991年下期からはメンフィスのUSWA にて、因縁のジェリー・ローラーを相手に統一世界王座を巡る抗争を展開[ 22] 。翌1992年 4月には、当時USWAと接点を持っていたW★INGプロモーション に来日、ジプシー・ジョー とも対戦した[ 23] 。同年下期よりWWFに復帰し、ジ・アンダーテイカー との怪奇派同士の抗争をスタート。11月25日開催のサバイバー・シリーズ では棺桶マッチによる決着戦が行われた[ 24] 。1993年 、マネージャーのキム・チーとの仲間割れを機にベビーフェイス に転向。聖職者 としてWWFに復帰したスリック を新しいマネージャーに迎え、ショーン・マイケルズ 、パパ・シャンゴ 、ヨコズナ 、バンバン・ビガロ 、ドインク・ザ・クラウン などのヒール勢を相手に異色のベビーフェイスとして活躍した[ 25] 。
その後、WWFを離れトラック・ドライバーをしていたが[ 4] [ † 4] 、同時期にWCW に移籍していたハルク・ホーガンの招きで1995年 よりWCWと契約。再びヒールに戻り、ケビン・サリバン 率いるダンジョン・オブ・ドゥームに加入。ザ・シャーク やゾディアック らと共闘し、MSWAからWWFを通しての宿敵ジム・ドゥガン との抗争を再開。同年9月17日のPPV "Fall Brawl" ではダンジョン・オブ・ドゥームのメンバーとしてメインイベントの時間差金網デスマッチ 「ウォー・ゲーム」に出場[ 26] 、ハルカマニアックス(ホーガン、ランディ・サベージ 、スティング 、レックス・ルガー )と対戦するが、この試合を最後にWCWを離脱した。
2000年代
以降はセミリタイアしてトラック・ドライバーを本業とする傍ら、各地のインディー団体にスポット参戦した。2001年 4月1日にはレッスルマニアX-Seven のギミック・バトルロイヤルに出場[ 27] 。1992年の参戦時と同様、キム・チーとハービー・ウィップルマン をマネージャーに従えて久々のWWE 登場を果たした。この大会では、当時WWEのコミッショナー役だったウィリアム・リーガル の執務室に闖入して部屋をメチャクチャにするなどバックステージのスキットでも活躍している。2004年 7月26日にはRAW のディーヴァ・サーチ にも出演した。
2005年 にWWEとレジェンド契約を結び、8月11日のスマックダウン でランディ・オートン と対戦。11月1日のタブー・チューズデイ のユージン &ジミー・スヌーカ 対ロブ・コンウェイ &タイソン・トムコ 戦にも登場し、試合後にトムコをウガンダン・スプラッシュ で圧殺している。2006年 6月26日のRAWでは、前日のヴェンジェンス で邂逅した同タイプの後継者ともいえるウマガ との試合が組まれた[ 28] 。
その後もインディー団体にレジェンドとして時折参戦する一方、オールドタイマーによるリユニオン・イベントにも出場し、かつてのライバルたちとエキシビション・マッチを行った。2008年 6月8日にはTNA のPPV "Slammiversary " に登場。リング上で行われたジェイ・リーサル とソウ・カル・バルのウェディング・セレモニー(ランディ・サベージとエリザベスのパロディ)に、ジェイク・ロバーツ、ココ・B・ウェア 、ジョージ・スティール と共に出席して式をぶち壊しにした。
引退と闘病生活、死去
2011年 11月7日、糖尿病 の合併症で左足を膝下から切断することとなり、現役を引退[ 29] [ 30] 。2012年 4月には右足の切断手術も行われた[ 31] 。
2016年 、WWEを相手にプロレスラーが在職中に脳挫傷 による障害を受けたという損害賠償を求める裁判に連名[ 32] 。この訴訟は、2018年 9月にコネチカット 地区判事によって棄却された[ 33] 。
2017年 11月19日、ミシシッピ州オックスフォード の病院で心臓と肺の周りに溜まった体液を排出するための救命救急手術を受けた[ 34] [ 35] 。 その後、合併症のために生命維持装置 につながれていた[ 34] 。継娘によると翌日には改善の兆しを見せ、11月22日には自力で呼吸ができるようになったものの、話すことができず、集中治療室 に入ったままであったことが報告された[ 35] 。
2020年 8月5日、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の検査で陽性と判明。その日のうちに入院したが、同月9日午後に死去。ESPN のジェイソン・キング記者はカマラの妻へのインタビューで、毎週通院していた人工透析 センターで感染したのではないかとしている[ 36] 。70歳没[ 37] [ 38] 。WWEも公式サイトでその死を伝えた[ 39] 。
得意技
サージェント・スローター を攻撃するカマラ(2009年 3月28日、ペンシルベニア州 のインディー団体にて)
日本ではキワモノ的なイメージばかりが喧伝されレスラーとして正当に評価されることはなかったが、巨体に似合わぬ敏捷性 の持ち主であり、トップロープからのダイビング・ボディ・プレス をはじめ、(決して見栄えは良くないものの)リープ・フロッグ などもこなした。また、技ではないが自らの巨大な腹を太鼓 に見立てて両手でポンポンと叩く仕草も彼のトレードマークで、後にザ・ロック がハルク・ホーガン の前で真似をしたことがある。
獲得タイトル
特記以外はカマラ(キマラ)名義での戴冠。
NWAトライステート
NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / オキ・シキナ)[ 40] ※シュガー・ベア・ハリス名義
サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回[ 5] ※バッドニュース・ハリス名義
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
テキサス・オールスター・レスリング
ユナイテッド・ステーツ・レスリング・アソシエーション
グレート・レイクス・レスリング・アソシエーション
サウスイースタン・エクストリーム・レスリング
マネージャー
脚注
注釈
^ もともとのリングネームは「キマラ (Kimala )」だったが、発音のしやすさから地区によっては「カマラ (Kamala )」と呼ばれ、次第にそれが正式な呼称として定着していった。これにより、「ジャイアント・キマラ」のリングネームは日本ではベンジャミン・ピーコックが継承するようになった。
^ 「フライデー (Friday )」または「キム・チー (Kim Chee )」と呼ばれ、カマラが参戦する各団体にサファリ・ルックのハンドラー(調教師)として出現し、セコンド 役を務めた(Kim Chee and Kamala )。正体はすべて同一人物ということになっているが、各団体のジョバー やレフェリー が覆面を被って変身する場合が多く、WWFではスティーブ・ロンバルディ が担当した。カマラは英語が喋れないという設定だったため、リング下からデタラメなスワヒリ語 をまくし立てて彼に指示を与えていた。
^ 来日時はカレーライス が気に入ったようで、ホテルの自室で食べている姿も見られた。また、当時のプロレス週刊誌の懸賞プレゼントに彼の直筆サインが出品されたが、通常の筆記体 ではなく拙い文字で "K I M A L A" とサインするなど、英語の読み書きができないというキャラクター設定を徹底させていた。
^ 音楽好きである彼は、リングを離れていたこの時期よりプライベートで自作の曲を書きためており、2000年代に入って自らの作詞・作曲・歌によるCD もリリースしている(Kamala sings! )。ストックは100曲以上にも上り、その中には(主にWWF時代に自身が経験した)プロレスリング・ビジネスの不当な雇用条件に対する告発を歌ったものも少なくないという。
出典
外部リンク