他の3名のキッスのメンバーとともに、フレーリーは自身の名を冠したソロアルバムを1978年にリリースした。このアルバムはメンバーたちのソロアルバムの中でもっとも売れた作品となり、アルバムから収録曲からのシングル(ラス・バラードが書いた「New York Groove」)は全米トップ20に達した。
1979年にはフレーリーの作曲面での存在感はグループ内でも増してきて、1979年発表の『地獄からの脱出 (Dynasty)』には2曲のオリジナル曲と1曲のカバー曲(ローリング・ストーンズの「2,000マン (2000 Man)」)を、1980年発表の『仮面の正体 (Unmasked)』には3曲のオリジナル曲を提供した。しかしこの間、商業面ではキッスは米国内での全盛期とは遠く、他の諸国(特にオーストラリアでは、『地獄からの脱出』と『仮面の正体』は彼らのアルバムとして最大のヒットを記録した)に活動の場を移し始めていた。キッス内でのフレーリーの作曲の役割が強まってはいたが、自身とバンドの音楽の方向性の違いに悩み始めていた。1980年にピーター・クリスがキッスを脱退すると、代わりに加入したドラマーのエリック・カーは正式メンバーとならず、賛否をつけられなかったため、フレーリーはしばしばバンドでの方針決定をする際に2対1で多数決の少数側となることが多くなった。1981年の『〜エルダー〜 魔界大決戦 (Music from "The Elder")』のレコーディングでは、以前のアルバムよりもフレーリーの参加はさらに限られたものとなっていた。その理由は大きくはフレーリーが、普通のロックアルバムではなくコンセプト・アルバムを作るというバンドの方針に不満を感じていたためであった。
さらに状況を悪化させたのは、フレーリーのきまぐれな行動と薬物の乱用であった。1982年4月に彼は深刻な自動車事故を起こした(運転していたのはアントン・フィグであったが)。5月にはブロンクス・リバー・パークウェイにおいて時速145kmの運転で警察とのカーチェイスを繰り広げた。この事件で600ドルの罰金と6ヶ月の運転免許停止処分を受けた[3]。フレーリーは1982年発表のベストアルバム『キッス・キラーズ (Kiss Killers)』および同年発表のスタジオアルバム『暗黒の神話 (Creatures of the Night)』のジャケットに顔を出したものの、両作品の制作には関わらなかった。フレーリーのバンドとの共演は、「勇士の叫び (I Love it Loud)」用のビデオ、1982年11月のヨーロッパでのプロモーション活動、そして1983年初頭のバンドの世界ツアーのプロモーション用にMTVのバンドインタビューに出演したのが最後であった。
ソロ活動
1983年3月時点でフレーリーは既にキッスの正式メンバーではなくなっていた(1982年12月の Creatures of the Night ツアー開始当初から後任としてヴィニー・ヴィンセントが加入した)が、1984年半ばまでキッスの契約上の4分の1のシェアを有していた。法的ならびに金銭的な問題を避けるため、彼はこの契約が切れるまで、ソロ活動を始めなかった[3]。
『Trouble Walkin'』の特筆すべき点はピーター・クリスのゲスト参加であり、「2 Young 2 Die」のボーカルを務めた。クリスとフレーリーの共演は、1987年にロサンゼルスでのFrehley's Cometのライブに少しだけ顔を出し「Deuce」のアンコールでドラムを叩いて以来だったが、アルバム作品での共演となるとキッスの1979年のアルバム『地獄からの脱出』以来のことであった。フレーリーがキッス(特にジーン・シモンズ)とは1980年代を通じてプロモーション面でのつながりとしての関係であったのに対し、クリスとフレーリーの関係はこの期間において比較的良好な関係を保っていた。1995年6月にはフレーリーのバンドとクリスのバンドが Bad Boys Tour で共演した。このライブでは、フレーリーとクリスが最後にともに現れ、「ナッシング・トゥ・ルーズ (Nothin' to Lose)」と「ロックンロール・オールナイト (Rock and Roll All Nite)」を演奏してコンサートを終えていた[5]。
キッス再結成とその後
Bad Boys Tour の開始から数ヶ月して、フレーリーとクリスはキッスとともに1995年8月8日のMTVアンプラグドで共演した。これは1979年の Dynasty ツアー終了以降、公の場でキッスのオリジナルメンバーの初共演となった。ファンの期待は相当強く、完全な再結成があるとの噂がまたたくまに広まった。12月までには、再結成のための契約が取り交わされたが、その時点で公式発表は無かった。1996年1月にフレーリーは、再結成に備えて形成外科手術を受けた[5]。
フレーリーは、ハワード・スターンのPPV番組に2005年に出演した際、自身がキッスを脱退したのは少なくとも部分的にはシモンズとスタンレーがエアロスミスの前座をやりたがり、実際に1974年の3月24日と4月7日に前座を務めたからだと述べた。それまでキッスは最大のライバルの前座を務めたことは無かった。実際には、この2バンドは共演を楽しんだ。ジョー・ペリーはツアーの終盤で2回「ストラッター (Strutter)」で共演し、キッスのメンバー以外では唯一ステージ上でキッスと共演した者となった。フレーリーはまた、セイヤーを彼が作り出したキャラクターに起用することは「問題ではない。なぜなら、そのキャラクターを作り出したのは自分だからだ」と述べた。フレーリーはスターンの番組に自身の映画『Remedy』のDVDリリースについて話をするつもりで出演したが、スターンはキッスの話をし続けたため、フレーリーのマネージャが番組に電話し、キッスに対する言及は「エースを立腹させる」と述べた。舞台裏では、フレーリーは『Kiss & Tell』(ゴードンG.G.ジェバート、ボブ・マックアダムス著)や『Into The Void... With Ace Frehley』(ウェンディ・ムーア著)については言及しないという条件で番組出演に同意していた。スターンの番組スタッフはゴードン・ジェバートとボブ・マックアダムスを電話で待機させて、フレーリーと対決させようとしていた。また、スターンは何度もフレーリーに、彼がジーン・シモンズを嫌っていると言わせようともした。フレーリーはこれには「それは違うな。俺はジーンを大好きだよ。」と答えた。フレーリーは隠されていた対決を知ると、番組出演を途中でやめた。ゲイリー・デラベイトは「フレーリーのインタビューはハワード・スターンの汚点の一つとなるもの」で、「私がここで働いている限り2度とフレーリーは戻ってこないだろう」と述べた。
フレーリーは俳優業にも挑戦した。(TVドラマ『ミレニアム』での端役や映画『Kiss Meets the Phantom of the Park』での自身の役を考慮に入れないとすると)2005年に独立系の刑事もののドラマ映画『Remedy』でデビューした。エディー・トランク・キッスマス・スペシャル2005によれば、フレーリーは既に薬物の影響からここ数年間脱しており、2008年には19年振りのスタジオ新アルバム完成を迎えた。ラジオ番組に登場したフレーリーがソロ・アルバムについて、2009年1月5日に自身の公式サイトで、アルバムのタイトルとジャケットデザインを明らかにすると語った。そしてアルバムは2009年春に『Anomaly』が発売された。
"Eugene" – Crazy Joe and the Variable Speed Bandが1981年に発表したバンド名と同名のアルバムでの楽曲。フレーリーはドラムマシンを演奏し、共同プロデュースを担当。
"Bump and Grind" – ウェンディ・O・ウィリアムスの1984年発表のアルバム『W.O.W』の楽曲。フレーリーはリードギターを担当。
Cat #1 – クリスの1994年発表のアルバム。フレーリーはリードギターを以下の3曲で担当: "Bad Attitude"、"Walk The Line"、"Blue Moon Over Brooklyn"
"Cherokee Boogie" – 1996年のコンピレーションアルバム『Smell the Fuzz: Guitars that Rule the World 2』中の楽曲。作曲、プロデュース、編集を担当し、ギターも全て演奏した。
"Rocker Room Theme" – スティル・ウィックドの1998年発表のアルバム『Something Wicked This Way Comes』の楽曲。フレーリーはリズムギターおよびリードギターを担当。このCDではロン・リージャック(ウィックド・レスター)、ゴードン・G・G・ジェバート、マリアン・スカンディフィオ、マイケル・シオットらもゲスト参加。
"Foxy Lady" – ESP(エリック・シンガー・プロジェクト)の1998年のアルバム『Lost and Spaced』の楽曲。フレーリーはリードギターを担当。