ロンドン赴任当初は、毎回「This is London」の一言で始めていたが、それをアメリカで聞いていた大学時代の恩師であるアイダ・アンダーソンが、「"This"をゆっくり言いなさい」とマローにアドバイスした。それを期に「This…is London」という言い回しに変えたところ、多くの聴取者がこの独特の間に魅せられ、人気を博すこととなり、言い回しもマローのトレードマークとして広く知られるようになった。
マッカーシズムがアメリカをはじめとする西側諸国中を恐怖に陥れ、当時アメリカ中のあらゆるマスコミが、自分自身が赤狩りの標的になることを恐れてマッカーシーに対する批判を控えていた中で、マローは自らがホストを務める『See it Now』の番組内で、ミシガン州空軍(英語版)予備役のマイロ・ラドゥロヴィッチ中尉が「父親と妹が共産主義者だという内部告発があった」というだけの理由で、ミシガン州空軍から除隊勧告を受けたことに対して異議を申し立てた。なお、当然のことながらマッカーシーは自分の方針に沿ったこのミシガン州空軍の決定に対し、強い支持を与えていた。
この放送に続いて、1954年3月9日に放映された『See it Now』の30分間の特別番組『A Report on Senator Joseph McCarthy(ジョセフ・マッカーシー上院議員についてのレポート)』の中で、「共産主義の脅威と戦い自由を守る」との言葉を盾にして、強引かつ違法な手法で個人攻撃を行うマッカーシーのやり方を鋭く批判した。なおこれらの一連のマローによる「赤狩り」及びマッカーシーへの批判は、アメリカの大手マスコミによる初めての「赤狩り」及びマッカーシーへの批判となった。
マッカーシーはその後も陸軍を追及する委員会において、コーンとともに「陸軍内の『共産主義シンパ』の浸透を許した」と軍の上層部を告発したが、陸軍側の弁護士を務めたジョセフ・ウェルチ(Joseph N. Welch)から、告発の内容の信憑性の低さを指摘された上に「もう充分だ。君には廉恥というものが残っているのか」と叱責された[1]、さらにマッカーシーもコーンも理論的な反論ができなかった。全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落を象徴するシーンとして多く流されることになる。
1958年に『See It Now』の放映が終了した後も、『Person to Person』や各種ドキュメンタリー番組、情報番組を中心に、CBSを代表する第一線のジャーナリスト及びアンカーマンとして活躍した。
しかし1961年には、同年2月に就任したジョン・F・ケネディ大統領に請われ、合衆国情報庁(United States Information Agency/USIA)の長官に就任するために、長年勤めたCBSを退社した。なおケネディは「赤狩り旋風」が吹き荒れた当時はマッカーシーを擁護する政治家のうちの1人であった。