1941年、アメリカに来ていたドイツの地理学者アウグスト・レッシュからヴァルター・クリスタラーの中心地理論を紹介され、「都市の立地論」という論文を執筆し北アメリカの地理学界に中心地理論の考えを広めた[3]。1945年、『アメリカ政治社会科学アカデミー年報』(Annals of the American Academy of Political and Social Science)にシカゴ大学で同じ研究室を使っていたチョーンシー・ハリスと共に「都市の本質」(The nature of cities)という論文を発表、多核心モデルを示した[4]。1948年2月、ハーバード大学が地質・地理学科の地理学部門の閉鎖を決定する[5]。当時、地域計画学科に属していたアルマンは地理学部門を守るために弁護するも閉鎖は覆らず、1951年に地理学科の建て直しに奔走していたドナルド・ハドソンに招聘され、シアトルのワシントン大学に移籍した[6]。都市地理学・交通地理学の分野で有力な学者となっていたアルマンは、ワシントン大学地理学科の顔として迎え入れられた[7]。1959年には、スウェーデンのルンド大学の地理学者トルステン・ヘーゲルストランドをワシントン大学に招待し、講義を開講したが、ヘーゲルストランドはこの時にアメリカ各地で発生していたスプロール現象や環境破壊に強い衝撃を受け、それまで注目していなかった景観や環境問題についての研究を始めるきっかけとなった[8]。