エドガル・マヌチャリアン(アルメニア語: Էդգար Մանուչարյան, ラテン文字転写: Edgar Manucharyan, 1987年1月19日 - )は、ソビエト連邦(現アルメニア)・エレバン出身の元アルメニア代表の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW、MF。
経歴
クラブ
アヤックス
FCピュニク・エレバンの下部組織を経て、リザーブチームで得点を量産していたことにより、2002年シーズンに同クラブのトップチームへ昇格を果たす[1]。翌2003年シーズンは、12得点を記録する[1]。2004年シーズンには、ガルスト・ペトロシャン(英語版)とのコンビ[2]で22試合21得点と得点王に輝く活躍を見せ (ペトロシャンも得点王) 、チームの優勝に大きく貢献し、更に年間最優秀選手賞(英語版)を受賞する[3]と、注目を集め、同年12月にアヤックス・アムステルダム (オランダ1部) からトライアルに招待される[4]。14日のFCバルセロナとの親善試合中に足を骨折する[5]不運に見舞われ、トライアルを途中で終了することを余儀なくされたものの、それまでのプレーが認められ、7月1日からの3年契約を勝ち取ることに成功した[6]。
2005年9月18日のAZアルクマール戦 (2-4) でライアン・バベルとの交代から84分に初出場を飾り[7]、以来、リーグ戦4試合に出場し、翌2006-07シーズンは、相次ぐ負傷に悩まされたことで、昨季同様に下部組織のヨング・アヤックスでのプレーが主戦場となる[8]中、2006年11月2日、UEFAカップ2006-07のFKアウストリア・ウィーン戦で公式戦初得点を挙げた[7]。2007年3月16日、2008年までの契約が2011年6月30日まで延長された[7]。なお、2006年7月22日には、アヤックスとアーセナルFCに在籍したデニス・ベルカンプの引退試合に出場した際、新設されたエミレーツ・スタジアム史上初めて得点を挙げたクラース・ヤン・フンテラールのゴールをアシストしている[9]。
2007-08シーズンにアドリー・コスター監督が新たに就任すると、トップチームでは未出場が続き、今まで以上に下部組織でのプレーが主戦場になっていた為、2008年5月にアヤックスからの退団を望む[10]。6月には、5人の選手と共に放出リストに掲載されたと報じられた[11]。
ハールレム&AGOVV
2009年8月6日にエールステ・ディヴィジ (2部) のHFCハールレムへ1年間の期限付き移籍に出される[12]。翌日のSCフェーンダム戦 (1-6) において、フランク・カレマン(オランダ語版)との交代で早速初出場を飾り、9月26日のFCデン・ボス戦で初得点を挙げる等で半年間に主力として17試合6得点を記録した。だが、シーズン中の2010年1月25日にハールレムが破産を宣言し、新たな投資家を発見出来なかったことにより、アヤックスから期限付き移籍で加入していた自身を含む6人は復帰することになった[13]。
2010年2月3日にジョン・ファン・デン・ブロム監督率いるエールステ・ディヴィジのAGOVVアペルドールンへシーズン終了までの期限付き移籍に出される[14]。FCフォレンダム戦で初出場及び初得点を記録し[15]、それから1週間後の2月19日のSBVエクセルシオール戦ではハットトリックを達成した[16]。
ピュニク・エレバン復帰
2010年7月にアヤックスとの2011年夏まで契約を双方合意で解除[17]、ハールレムで17試合6得点、アペルドールンで10試合7得点を挙げたが、アヤックスでは9試合無得点に終わる[18]。19日に古巣FCピュニク・エレバンと半年の契約で復帰[19]し、UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11予選2回戦のパルチザン・ベオグラードとの第2戦で初出場を飾る。リーグ戦で5得点を挙げて、チームの優勝に貢献した後、契約満了に伴い退団したマヌチャリアンに対し、FCカルパティ・リヴィウから関心を示されると、契約交渉の為にウクライナへ渡った[20]ものの、実現せず[21]、最終的に2011年1月26日にピュニク・エレバンと3年契約で再加入をした[22]。
ウラル
2011年8月中旬にFCピュニク・エレバンからロシア・ナショナル・フットボールリーグ (ロシア2部) のFCウラル・スヴェルドロフスク・オブラストへ1シーズンの期限付き移籍に出され[23]、2012年7月17日には同クラブと2年契約で完全移籍を果たす[24]。2013年4月1日のFCトム・トムスク戦 (2-0) において、完全移籍後初にして2得点を挙げた[25]。
アラシュケルト
2018年7月25日、アラシュケルトFCに移籍した[26]。
ピュニク・エレバン再復帰
2018-19シーズンの最終日である、2019年6月5日にアラシュケルトから放出され[27]、翌日、古巣FCピュニク・エレバンへの2度目の復帰を果たした[28]。
アラシュケルト復帰
2020年3月4日、アラシュケルトFCに復帰[29]。8月2日に現役引退を表明した[30]。
代表歴
アルメニア代表としては、まず、2002年からU-17代表でプレーすると共に同年はU-21代表としてもプレーしており、その後、U-19代表として参加したUEFA U-19欧州選手権2005の予選において8得点、特にハンガリー戦 (5-1) で4得点を挙げる活躍を見せた[1]。2004年からはA代表でプレーした。
個人成績
クラブでの成績
出典:[31][32]
所属クラブ
|
シーズン
|
リーグ
|
国内カップ
|
欧州カップ
|
合計
|
所属リーグ |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点
|
ピュニク・エレバン
|
2002
|
アルメニア・プレミアリーグ
|
10 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
10 |
2
|
2003
|
17 |
12 |
0 |
0 |
4 |
1 |
21 |
13
|
2004
|
22 |
21 |
0 |
0 |
4 |
2 |
26 |
23
|
2005
|
4 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
5
|
合計
|
53 |
40 |
0 |
0 |
8 |
3 |
61 |
43
|
アヤックス
|
2005-06
|
エールディヴィジ
|
4 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
5 |
0
|
2006-07
|
5 |
0 |
1 |
0 |
2 |
1 |
8 |
1
|
2007-08
|
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
2008-09
|
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0
|
合計
|
9 |
0 |
1 |
0 |
3 |
1 |
13 |
1
|
ハールレム (loan)
|
2009-10
|
エールステ・ディヴィジ
|
17 |
6 |
2 |
0 |
- |
19 |
6
|
AGOVV (loan)
|
12 |
8 |
0 |
0 |
- |
14[a] |
9
|
ピュニク・エレバン
|
2010
|
アルメニア・プレミアリーグ
|
12 |
5 |
0 |
0 |
1 |
0 |
13 |
5
|
2011
|
16 |
8 |
2 |
0 |
1 |
0 |
19 |
8
|
合計
|
28 |
13 |
2 |
0 |
1 |
0 |
31 |
13
|
ウラル
|
2011-12
|
ロシア・ナショナル・フットボールリーグ
|
12 |
6 |
0 |
0 |
- |
12 |
6
|
2012-13
|
11 |
6 |
0 |
0 |
- |
11 |
6
|
2013-14
|
ロシア・プレミアリーグ
|
23 |
3 |
0 |
0 |
- |
23 |
3
|
2014-15
|
17 |
2 |
1 |
1 |
- |
18 |
3
|
合計
|
63 |
17 |
1 |
1 |
- |
64 |
18
|
キャリア通算成績
|
182 |
84 |
6 |
1 |
12 |
4 |
202 |
90
|
代表での成績
出典:[31][33]
アルメニア代表
|
年 |
出場 |
得点
|
2004 |
6 |
0
|
2005 |
3 |
1
|
2006 |
2 |
0
|
2007 |
3 |
0
|
2008 |
3 |
1
|
2009 |
3 |
0
|
2010 |
6 |
3
|
2011 |
8 |
1
|
2012 |
2 |
1
|
2013 |
3 |
1
|
2014 |
6 |
0
|
2015 |
1 |
0
|
2016 |
2 |
1
|
2017 |
4 |
0
|
Total |
53 |
9
|
代表での得点
獲得タイトル
クラブ
- FCピュニク・エレバン
- アヤックス・アムステルダム
- FCウラル・スヴェルドロフスク・オブラスト
個人
脚注
外部リンク