卒業後、エドゥアルド・モンドラーネは国際連合の職員となった。アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールの最も重要な側近の一人だったアドリアーノ・モレイラ(英語版)は、政治科学の教授であり、ポルトガル海外領土相(Ministro do Ultramar)のポストに任命されていたが、彼は国際連合にて働いていた際にモンドラーネと出会い、モンドラーネの特性を認め、ポルトガル側に付けるためにポルトガル領モザンビークの行政ポストをオファーした。しかしモンドラーネはオファーに興味を示さず、後に確かな指導者を欠いていたモザンビークの独立を目指す運動にタンザニアで加盟した[1]。1962年にモンドラーネは既存の独立勢力を統合して新たに創設されたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)の書記長に選出された。1963年に彼はタンザニアのダルエスサラームにてモザンビーク在外代表に就任した。西側諸国とソビエト連邦双方、及びアフリカ諸国の協力により、FRELIMOは1964年にポルトガルからの独立を目指してゲリラ戦争を開始した。FRELIMOは当初指導権が分離しており、モンドラーネが指導した派閥は単なる独立戦争を望まず、社会主義社会の建設を望み、ドス・サントス、マシェル、シサノらと党中央委員会の多数派はこの見解を共にしていた。反対派のンカヴァンダメ、シマンゴらは独立を求めていたものの、社会環境の根本的な変容は望まず、黒人エリートが白人エリートに取って代わることを望んでいた。社会主義者の立場は1968年7月に開催された第二回党大会で承認され、モンドラーネは党書記長に再任され、農民(早期の「クーデター」を狙うことに反対した)との協力を基盤にした遅延戦争戦略が採用された。