ウンターゼーン (独 : Unterseen ) は、スイス ベルン州 インターラーケン=オーバーハスリ区 の基礎自治体で、ベルナー・オーバーラント 地方にある歴史的な街[ 1] 。13世紀にハプスブルク家 によって建設され、中世 の雰囲気を残している。
アーレ川 を挟んですぐ隣がインターラーケン であり、ブリエンツ湖 とトゥーン湖 の間に位置している。中高ドイツ語 でUnter は「間」、Seeは「湖」を意味しており、トゥーン湖に注ぐ北のチーンベルクの下のロンバッハ運河と南のアーレ川に挟まれた、ベーデリ (Bödeli)と呼ばれるトゥーン湖東岸の低い平地にある。
インターラーケンとともにユングフラウ 観光の拠点となっており、街からはアイガー 、メンヒ 、ユングフラウ が望める。ユングフラウ地方の観光をテーマとしたユングフラウ地方観光博物館があり、約200年にわたる地域の観光業の発展を紹介している。
歴史
人が居住した最古の形跡は新石器時代 で、新石器が発見されている。2世紀 にはローマ帝国 の墓地がこのあたりに作られている。中世前期 の墓があるのでその頃には居住者がおり、中世盛期 までには3つの城塞が築かれている。1133年 にインターラーケン修道院 がアーレ川の対岸に建てられるまでには、この地は「インター・ラクース」(羅 : Interlacus )と呼ばれていた。インターラーケン村は、この修道院を中心に発展していった。1239年 には「インダーラッペン村」(villa Inderlappen)と呼ばれており、1280年 には「インターラーケン市」(civitas Inderlappen)と表記されている。
ウンターゼーンの旧市街
ウンターゼーンの街は、1279年 6月13日 にハプスブルク家 のルドルフ1世 がエッシェンバッハ=オーバーホーフェン家のベルトルト3世男爵に、2つの湖の間に城塞を構えることを許可したことから始まった。ウンターゼーンという名のウンター(unter)は中高ドイツ語 で「間」、ゼーン(seen)は「湖」を意味するが、このような街の起源に由来する。この許可合意の中で、城塞は都市権 を与えられている。1281年 までにインターラーケンとウンターゼーンは一緒に「インダーラッペンあるいはウンダーゼーヴェン市」(stat ze Inderlappen oder Undersewen )と呼ばれており、1291年 には「ウンダーゼーヴェンと呼ばれるインダーラッペン」(Inderlappen, genant Undersewen )と言われている[ 1] 。
こうして築かれたヴァイッセナウ城 と後世のノイハウス、そしてウンターゼーン自体が、アルプス各地を結ぶ結節点にあたる戦略的に重要な場所であった。また、ヴァイッセナウ城とインターラーケン修道院、およびウンスプネン城 に居を構えるウンスプネン家の三者の支配権が複雑に絡み合っていた。そのため、争いが絶えなかった。また外部からは、オーストリア 方面のハプスブルク家や旧スイス連邦 側のベルン が影響力を持っていた。ウンターゼーンの城塞は地元の俗人の貴族によって建設されたが、強大になる修道院の勢力を抑制し、またアーレ川に架かる橋の支配権を得るためのものであった。インターラーケン修道院との争いの只中に置かれた新興の街ウンターゼーンは、早くからベルン の後ろ盾を求めた。1386年 のゼンパッハの戦い で旧スイス連邦が勝利すると、村々はベルンの統治下に入り、ベルンの管理官が設置された[ 1] 。
宗教改革 の間、ウンターゼーンはインターラーケン修道院に対抗し、ベルンの側についた。ベルンは1191年 に建設された新興都市であったが、ローマ教皇 と長年議論したうえでローマ・カトリック から離脱していて、ついにはインターラーケン修道院を支配下に置いた。その時にベルンは修道院の遺領に税をかけたので、1528年 にベルン高地地方 の不平分子が蜂起したが、ウンターゼーンはこの蜂起に加わらなかった。蜂起軍はハスリタール とウンターヴァルデン に展開し、ベルン軍はウンターゼーンに入ろうとしていた。10月29日 に蜂起軍はウンターゼーンを占領したが、ベルン軍がトゥーン湖から上陸し、ウンターゼーンの住民も非協力的だったので、蜂起軍は10月30日 の夜にウンターゼーンおよびベーデリから撤退した。ベルンに対する忠誠の結果、ウンターゼーンは修道院の遺領のうちアルプ・ゼフィーネン[ 2] の所有権を認められた。
1819年 のウンターゼーンの絵画
1364年 、修道院の水車から火の手が上がり、ウンターゼーンはほとんどが焼失した。1470年 には再度大規模な火災が発生し、ベルン政府は市庁舎を中心として街の再建を行った。教会堂が最初に記録されているのは1353年 であるがこの火事で焼失し、火事の後で同年に再建されている。現在の教会は、倒壊した古い建物の一部を用いて1852年 に建てられたものである。[ 1] 。
ヘルヴェティア共和国 が建国されると、ウンターゼーンはベルンの封建体制の復活に対する抵抗の中心地となった。1805年 と1808年 に企画されたウンスプネン祭 は、都市部の住民と郊外の住民との和解を意図したものであった。しかしこれはうまくいかず、政府はこのような祭典を禁止した。1815年 に起きたインターラーケンの騒乱には、多くのウンターゼーン市民が加わった。19世紀 の初め、街を囲む壁と堀が壊され、1855年 には門が撤去された。
18世紀 の中頃から始まる観光業の急成長において、ウンターゼーンは重要な役割を果たしたが、後にその役割は大部分がインターラーケンに引き継がれている。
ギャラリー
ウンターゼーンとトゥーン湖
ウンターゼーンの街
ウンターゼーンの街並み
セントラルホテル
脚注
出典
外部リンク