ウィリアム・ヴァカナラット・シャドラク・タブマン (英語 : William Vacanarat Sharach Tubman , 1895年 11月29日 - 1971年 7月23日 )は、リベリア の政治家 。第19代大統領 。外資の導入による経済開発やアメリコ・ライベリアン と先住部族との社会的格差や差別廃止に力を入れるなどしたが、独裁的でもあった。
来歴
1895年 にリベリア・メリーランド郡 ハーパー で生まれた。アメリコ・ライベリアン である。弁護士だったタブマンは、1923年 にホイッグ の議会で当選し、政治家となった。1931年 に議員を辞任しているが、1934年 に再び当選。1937年 に最高裁判所 で准裁判官になるため再び辞任している。
1944年 リベリアの大統領に就任[ 1] 。アメリコ・ライベリアンと先住部族との経済的、政治的、社会的な大きな格差を緩和するため、国家の統一を図ろうとしていたが、選挙権 はアメリカン・ライベリアンの男性にしかなく、実質はアメリコ・ライベリアン基盤のホイッグ党 の一党独裁 のままであった。
第二次世界大戦 に対してはタブマンは連合国 側に付き、枢軸国 に宣戦布告した。その後、アメリカの影響と援助を受けながらも、他方面での外交にも力を入れようとした。タブマンは国の経済などが未開発だったため、経済開発などをして発展させるため、1948年 便宜置籍船 制度を導入する。これにより、アメリカ企業を中心に国内の鉄鉱石 、天然ゴム 、木材 などの開発のため、30以上の外国企業が参入し、リベリアの経済発展に貢献する。1951年 にはアメリコ・ライベリアンの女性と、先住部族の土地所有者に大統領選挙権を拡大し、さらに、1957年 には先住部族の差別の撤廃に力を入れた。
1952年 の大統領選では先住部族クル族 出身のディドフ・ウェレ・トウェ (英語版 ) を破り、再び大統領となる。トウェは選挙手続きに疑惑があるとして、国際連合 に提訴したが、タブマンはトウェを弾圧し、トウェは国外亡命した。後に国交を樹立することになるが[ 2] 、タブマンの在任中はソ連 との接触はあったものの外交関係を結ぶことはなかった[ 3] 。
1971年 イギリス のロンドン の病院で入院していたが手術中に死亡した。タブマンの副大統領 だったウィリアム・トルバート がタブマンの後を引き継いだ。
リベリア国民民主党 に所属する政治家ウィンストン・タブマン (英語版 ) は彼の孫である。
脚注
^ 1943年 に一時期、大統領に就任している。
^ Elwood D. Dunn; Amos J. Beyan; Carl Patrick Burrowes (20 December 2000). Historical Dictionary of Liberia. Scarecrow Press. p. 308. ISBN 978-1-4616-5931-0 .
^ George Klay Kieh (1992). Dependency and the foreign policy of a small power: the Liberian case. Mellen Research University Press. p. 152. ISBN 978-0-7734-9813-6 .