1902年に、ロンドンのチェルシーにオーガスタス・ジョンと共同で、美術学校(teaching studio)をつくり、1914年まで教えた。またダブリンで学んだ美術学校(Metropolitan School of Art in Dublin)でも教えた。ジョン・シンガー・サージェントの推薦で、最も人気のある肖像画家になった。たとえば『セントジョージ婦人の肖像』などがこの時代の作品を代表している。一方で『真昼の渚』のような印象派のスタイルの絵も描いた。何度も故郷のアイルランドを訪れた成果の一つが民族衣装を着た『アランからの男』のような作品になった。アイルランドへの思いは『マネへのトリビュート』で、マネの作品の飾られた部屋で、ジョージ・ムーアやウォルター・シッカート、ヘンリー・トンクスなどアイルランド出身の芸術家を含む人物が描かれたいる。
第一次世界大戦の戦争協力の成果によって、オーペンは1918年に大英帝国勲章(ナイト・コマンダー)を受勲した。翌年、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員に選ばれた。1919年のパリ講和会議の間、イギリス政府はオーペンを公式肖像画家に任命した。オーペンの最も有名な作品のひとつ『1919年6月28日、ベルサイユ宮殿、鏡の間での講和条約の調印(英語版)』(The Signing of Peace in the Hall of Mirrors, Versailles, 28 June 1919)はこれによって製作された。
同じく政府の依頼により描かれた『フランスでの無名のイギリス兵士のために』(To the unknown soldier in France)と題された絵画はイギリス国旗に包まれた棺がヴェルサイユ宮殿に置かれた構図であるが、初めの構図では棺に付き添う象徴的な2人の半裸の兵士が描かれていた。新聞によって半裸の兵士がいることがふさわしくないという非難の後、戦争大臣は修正が加えられなければ、美術館で受け入れないと声明し、オーペンは構図を改めて、棺だけの作品となった。