ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(Veeraphol Nakhornluang Promotion、1968年11月16日 - )は、タイ王国の元ムエタイ選手、元プロボクサー。本名はティーラポン・サーラーングラーン(Theeraphol Saranglang)。ムエタイで3階級制覇の後、国際式ボクシングへ転向。僅か4戦目でWBA世界バンタム級王座を獲得。その後はWBC世界バンタム級王座を14度防衛した[1]。
タイ王国ナコーンラーチャシーマー県生まれ、サラブリー県育ち。表情を全く変えずに強打を放つ所から「デスマスク(死者の顔)」との異名を持つ。タイで普通に使われるニックネームはポン(Phol)。なお、「ナコンルアンプロモーション」はスポンサーの映画会社の名前である。ウィラポン・サハプロム(Veeraphol Sahaprom)は彼がキャリアの初期において使っていたリングネームで、2009年3月より再び使用している。
華々しい成功を収めても自分に厳しく、日々の練習や節制を決して怠らなかったことから、彼の姿勢を模範とするボクサーも多い。世界チャンピオンとなった後もジムの隣に一間を借りて家族や多くの練習生と共に過ごした。
辰吉丈一郎を2度にわたってKO、また西岡利晃の挑戦を4度退けたことから長く「日本ボクシング界の宿敵」と目されていた。
ムエタイ選手として、ジュニアフライ級・フライ級・ジュニアバンタム級の3階級でラジャダムナン・スタジアム認定タイトルを獲得。
ムエタイ3階級制覇という実績を引っ提げ、1994年12月5日、タイ王国ノンタブリー県にて国際式デビューを果たす。
そのデビュー戦でジョエル・フニオ(フィリピン)を3回TKOで下し、WBCインターナショナルスーパーフライ級王座を獲得した。翌年の3月26日には同王座の初防衛に成功している。
1995年9月17日、デビュー4戦目で世界初挑戦。ダオルン・チュワタナとの同国人対決を行い、判定決着となった結果はスプリットとジャッジ二人が割れたが二者がウィラポンを支持したため僅差の判定を制し、WBA世界バンタム級王座を獲得、またこの勝利によりセンサク・ムアンスリンに次ぐ4戦目での世界王座奪取記録を達成した。
1996年1月28日、カンチャナブリーにて初防衛戦で元WBC世界スーパーフライ級王者ナナ・コナドゥ(ガーナ)と対戦。初回に左フックでダウンを奪ったものの、続く2回に逆襲に遭い、最後はカウンターを貰いキャンバスに崩れ落ち必死の覚悟で立ち上がるも、足がふらついているのを見たレフリーが試合を止めた2回TKO負けで4か月で王座から陥落した。
WBA王座陥落後は再び世界を目指すためにおよそ3年間キャリアを積みタイトル戦などはなかったものの16連勝(11KO)を果たし勢いそのまま2度目の世界戦を行うこととなる。
1998年12月29日、日本のリングに初登場。大阪市中央体育館でWBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎に挑戦。6回KO勝ちを収め、世界王座返り咲きを果たした。
1999年5月21日、タイ・サラブリー県ナショナルスタジアムにてマウロ・ブランコ(ウルグアイ)と対戦。5回KO勝ちで初防衛に成功した。
1999年8月29日、2度目の防衛戦。大阪府大阪市西区にある大阪ドームで辰吉と再戦。序盤から一方的に試合を支配していき、7回TKOで前王者を返り討ちにした。
2000年6月25日、3度目の日本での試合。当時"日本プロボクシング界最大のホープ"と称されていた西岡利晃と対戦し、12回判定勝ち。その後、西岡とは3度対戦した。2001年9月1日の対戦では序盤苦戦するものの、終盤、右ストレート有効に決めて試合のペースをつかみ返して引き分けに持ち込んだ。2003年10月4日の対戦では、挑戦者びいきとも捉えられる判定もある中で引き分けた。さらに、2004年3月6日にも対戦し、12回判定で勝利している。なお、いずれの試合も日本で行われた。
辰吉との再戦ならびに西岡との4度の対戦を含め、実に14度の王座防衛を果たしバンタム級最多防衛記録を誇るオルランド・カニザレスに次ぐ2位タイの記録をマークした。
2005年4月16日、日本武道館で行われた15度目の防衛戦で長谷川穂積に12回判定負けを喫し、6年3か月以上保持してきた王座を失った[2]。
王座陥落後はノンタイトル戦で5連勝(4KO)し、2006年3月25日、11か月前の雪辱と王座奪回を懸け、長谷川穂積と兵庫県神戸市中央区にあるワールド記念ホールで再戦した[2]。序盤から長谷川のスピードについていけず劣勢に立たされたが、それでも7・8回には必死の攻めで反撃に転じた。しかし第9ラウンド開始直後、強烈な右フックをカウンターで受けダウン。立ち上がろうとしたものの、レフェリーストップにより自身2度目のKO負けを喫した[3]。なお、日本での試合はこれが8度目であった。
長谷川戦後は引退も囁かれたが、8月にタイのパトゥムターニー県でノンタイトル戦を行い、3回TKO勝ち。以降も長谷川への再挑戦を目指して連勝を続けABCOバンタム級王座も獲得し、5人の日本人選手とも拳を交え最終的に世界ランキングが上昇しついにはWBCバンタム級1位にまで辿りついた。
2008年6月12日、母国でWBC世界バンタム級2位ヴィシー・マリンガ(南アフリカ)との挑戦者決定戦に臨んだ。しかし、年齢から来る衰えも隠せず、3回にマリンガにダウンを奪われた末、4回マリンガのアッパーがまとまり、レフェリーストップ。TKOに敗れ挑戦権を逃す[4]。試合の翌々日に現役引退を表明。
その後、トレーナーとして世界ランカーナパーポン・キャッティサクチョーチャイ・のちに世界王者になるスリヤン・ソー・ルンヴィサイ・パイパロープ・ゴーキャットジム・テッパリス・ゴーキャットジムといった選手の育成に力を入れていたが、2009年3月に引退を撤回。20日に再起戦を行い、3回KO勝ちを収めた。その後は国内戦を主に4試合行った。
2010年4月23日、ビッキー・タフミル戦で2回TKO勝ちで勝利した試合を最後に引退し、将来的には自分のジムを持ちたいと話していて、今はレストランを経営し好評を博している。
1991年12月5日 - 1995年
1995年9月17日 - 1996年1月28日
1998年12月29日 - 2005年4月16日