イブン・マンズールの伝記的情報の情報源に関しては、Lisan al-ʿArab の1955年ベイルート新版刊本の序文が詳しい[2]。伝わっている名前にはいくつかのバージョンがあるが、一例では、Muḫammad b. Mukarram b. ʿAlī Riḍwān b. Aḫmad b. Abī Qāsim b. Ḫuqba b. Manẓūr al-Ansārī al-Ifrīqī al-Miṣrī, Jamāl al-Dīn Abū al-Faḍl という[2]。イフリーキヤ(現在のチュニス)生まれ[2]。シーア派であったが、頑迷なタイプではなかった[2]。何人かのマムルークのスルターンの下で官僚として働き、トリポリの町のカーディー(裁判官)を務めたあと、カイロで晩年を過ごした[2]。忙しい役所勤めの傍らで執筆したにもかかわらず、自筆の冊子で数えて500巻にも及ぶ膨大な著作が残されている[2]。目を悪くして晩年は盲目であった[2]。