イタリア共産党

イタリアの旗 イタリア政党
イタリア共産党
Partito Comunista Italiano
党旗
成立年月日 1921年
前身政党 イタリア社会党[1][2][3]
解散年月日 1926年[3] / 1991年[1][4]
解散理由 政党禁止令 (1926)[3]
党名変更 (1991)[1]
後継政党 左翼民主党[1][3]
共産主義再建党[1][3]
本部所在地 イタリアの旗 イタリアローマ
フランスの旗 フランスパリ[注 1]
政治的思想・立場 ユーロコミュニズム[2][5][6]
構造改革論[2]
反ファシズム[2]
共産主義[3]
機関紙 ウニタ[1][7]
党旗
国際組織 コミンテルン
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イタリア共産党(イタリアきょうさんとう、: Partito Comunista Italiano[2][3], PCI[3])は、イタリアにかつて存在した政党共産主義を掲げた政党だった。本部をローマラツィオ州)に置き、左翼民主党へ移行するまでは、トスカーナ州エミリア=ロマーニャ州ウンブリア州といった中部イタリアを基盤とし、西側諸国における共産党としては最大の勢力を有していた。

歴史

設立

1921年1月に、リヴォルノのゴルディーノ劇場でイタリア社会党(PSI)第17回大会が開催される中、「共産主義派」はアマデーオ・ボルディーガの呼びかけにより、サン・マルコーニ劇場に集まり、コミンテルン支部およびイタリア共産党の創立を宣言した。ニコラ・ボムバッチアントニオ・グラムシパルミーロ・トリアッティらも参加。同年5月15日の総選挙で30万票を獲得し、16人が当選した。

王政時代の弾圧と政権参加

コミンテルンを訪問したパルミーロ・トリアッティ(前列中央)

しかし1922年10月にベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党政権を掌握すると、アマデーオ・ボルディーガら党幹部が次々に逮捕され、組織分解を余儀なくされる。1924年5月にはアントニオ・グラムシが帰国し、非合法に共産党第1回全国協議会を開催するが、1925年にはファシスト党が共産党の残党を制圧し、翌1926年フランスパリに指導部が亡命することを余儀なくされた上に、亡命に失敗したアントニオ・グラムシが逮捕され投獄された。

その後はグラムシの友人のパルミーロ・トリアッティが書記長の座を継いだが、ファシスト党の一党独裁が続いたため、イタリア国内における共産党の活動は弾圧されたままとなり、トリアッティはフランスからスペイン共和国に、さらにはソビエト連邦へと亡命を続けることになった。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年イタリア王国枢軸国側として参戦したものの、1943年7月にはシチリア連合国軍の上陸を許すなど劣勢となった。その結果、同月にはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の命令でムッソリーニが逮捕され、9月にはイタリア王国が連合国軍と講和を結んだ。

しかし直後にドイツ国防軍北部および中央イタリア占領したことでドイツ傀儡政権である「イタリア社会共和国」が樹立され、ムッソリーニの側近となったボムバッチはこれに参加した。

1944年にはトリアッティが帰国を果たし、同年6月18日にイヴァノエ・ボノーミが組閣を行った際には無任所相として入閣を果たし[8]、 共産党は与党の1つとなった。その後も連合国軍や共産党シンパが多くを占めたパルチザンとドイツ国防軍との戦いが続き、1945年5月にイタリア北部を占領していたドイツが降伏する。

共和制下での勢力拡大

ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結した後に行われた、いわゆる「サレルノの転換」により、1945年6月から1947年5月までアルチーデ・デ・ガスペリの挙国一致政府に参加。トリアッティが副首相と法務大臣に就いた。その後イタリアから王政が廃止されて共和制が敷かれる中で勢力を拡大してゆく。1946年には党員が230万人に達したとして、ギネスブックの「最大の共産党」の項目で共産圏以外で最大の共産党と認定されていたことがある[9]

1949年2月22日、フランス共産党書記長であったモーリス・トレーズが、仏露間で戦争が勃発した場合にはソビエト連邦側に立つことを表明すると、同年2月26日、イタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティも同様の表明を行った[10]

1956年12月に行われた第8回大会で「社会主義へのイタリアの道」いわゆる構造改革路線を採択。イタリア共産党はムッソリーニ政権を打倒したパルチザンの中心的な役割を担っていたことや、冷戦下で隣国のユーゴスラビアまでが共産化された中で、ソビエト連邦をはじめとする共産主義陣営から豊富な活動資金が流れ込んだことなどから、西側諸国の共産党では異例の高い支持率を誇った。しかし宗教の存在を否定することから、カトリック教会の総本山であるバチカンからは破門を言い渡されるなど逆風も受ける。

ユーロコミュニズムと歴史的妥協

東ドイツ訪問時にエーリッヒ・ホーネッカーと会談するベルリンゲル(左端)

1973年10月には、貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなど独自の穏健化路線を取ることで、国民の間に蔓延する共産主義と極左に対する恐怖心を和らげることを目指した。

さらにベルリンゲル率いる主導部は、共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協」政策による連立政権の樹立を図る事となる。

また、ソ連による1968年チェコスロヴァキア侵攻、1980年アフガニスタン侵攻を公然と非難する上に、ドイツ社会民主党社会主義インターナショナルに接近するなど、ソ連と距離を置きつつ独自の政策を進める「ユーロコミュニズム」路線を推進し、1975年に行われた議会選においては得票率が30パーセント台に伸び、首都ローマボローニャフィレンツェをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出し、世界各国から多くの注目を浴びた。

しかし、「歴史的妥協」政策による勢力拡大は一時的に支持者を伸ばすことに成功したものの、冷戦下のイタリアにおいて、キリスト教民主主義内の右派カトリック教会大企業労働組合、さらに「容共政権」の成立を嫌ったアメリカ合衆国の意を受けた右派から、イタリア共産党の独自路線に強い不快感を示したソ連や、共産主義の原理原則に忠実な党内左派に至るまで様々な勢力による思惑、利権が入り混じったこと、さらに旗振り役のベルリンゲル(ベルリングェル)が1984年に急死したことなどから結局成功しなかった。

また、このような共産党の勢力拡大は、イタリアの左傾化を警戒するアメリカのみならずマフィアイタリア軍部内の右派をも強く刺激し、その結果、ネオファシスト系の団体や「ロッジP2」が関連した、左翼テロによる仕業と見せかけることを目的とした「ボローニャ駅爆破テロ事件」をはじめとする様々な極右テロを引き起こすことにつながった。イタリア共産党と同様に純然たるマルクス・レーニン主義を掲げていたイタリア社会党でも共産党の躍進を嫌ったベッティーノ・クラクシを党首とする右派が主導権を握って右旋回を行い、中道路線に修正した。これにより、社会党は1980年代からは大連立により政権に参加するようになったが、この結果政党同士の馴れ合いが横行するようになったイタリア政界では、冷戦終結後の1990年代にタンジェントポリと呼ばれる大規模な汚職が発覚することとなった。

解党

1985年ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカを推し進めている最中の1988年6月にアキレ・オケットを書記長に選出。さらにその直後に冷戦が終結し、ソ連による各国の共産党に対するプレッシャーがなくなる中、1991年2月に開催された最後の第20回党大会で左翼民主党(PDS、のちの左翼民主主義者)への移行、事実上の解党が決定される。

その後

その後アルマンド・コスッタやファウスト・ベルティノッティらは共産主義再建党(PRC)を結成。1998年には、ロマーノ・プローディ政権参画への対応を巡って、アルマンド・コスッタらは、左翼民主党を再度分党しイタリア共産主義者党(PdCI)を結成した。

イタリア共産党(会派・共産主義グループ)に終生所属[11]していた欧州議会議員アルティエロ・スピネッリはユーロコミュニズムを汎ヨーロッパ主義に発展させて欧州連邦主義運動を創設し、1984年に欧州議会で欧州連合設立条約草案を可決させたことからEUに欧州連合の父の一人[12]に数えられ、エスパース・レオポルドの建物やジャック・ドロール欧州委員会委員長らが属するスピネッリ・グループに名前を残すなど様々な形で欧州統合の象徴的人物として顕彰されている。

2006年には、かつてはイタリア共産党の議員団長も務めたジョルジョ・ナポリターノが第11代イタリア大統領に就任した。西側先進国で初の共産党出身の大統領となった。

2016年、イタリア共産主義再建党から分派したイタリア共産主義者党は「イタリア共産主義党」への名称変更を経て、イタリア共産党の名称を使用する事を発表した

歴代書記長

選挙結果

イタリア議会

代議院
選挙 得票数 % 議席数 +/− 党首
1946 4,356,686 18.9
104 / 556
増加 104
パルミーロ・トリアッティ
1948 8,136,637 [注釈 1] 31.0
130 / 574
増加 26
パルミーロ・トリアッティ
1953 6,120,809 22.6
143 / 590
増加 13
パルミーロ・トリアッティ
1958 6,704,454 22.7
140 / 596
減少 3
パルミーロ・トリアッティ
1963 7,767,601 25.3
166 / 630
増加 26
パルミーロ・トリアッティ
1968 8,557,404 26.9
177 / 630
増加 11
ルイージ・ロンゴ
1972 9,072,454 27.1
179 / 630
増加 2
エンリコ・ベルリングェル
1976 12,622,728 34.4
228 / 630
増加 49
エンリコ・ベルリングェル
1979 11,139,231 30.4
201 / 630
減少 27
エンリコ・ベルリングェル
1983 11,032,318 29.9
198 / 630
減少 3
エンリコ・ベルリングェル
1987 10,254,591 26.6
177 / 630
減少 24
アレッサンドロ・ナッタ
元老院
選挙 得票数 % 議席数 +/− 党首
1948 6,969,122 [注釈 1] 30.8
50 / 237
パルミーロ・トリアッティ
1953 6,120,809 22.6
56 / 237
増加 6
パルミーロ・トリアッティ
1958 6,704,454 22.2
60 / 246
増加 4
パルミーロ・トリアッティ
1963 6,933,842 25.2
84 / 315
増加 24
パルミーロ・トリアッティ
1968 8,583,285 30.0
101 / 315
増加 17
ルイージ・ロンゴ
1972 8,475,141 28.1
94 / 315
減少 7
エンリコ・ベルリングェル
1976 10,640,471 33.8
116 / 315
増加 22
エンリコ・ベルリングェル
1979 9,859,004 31.5
109 / 315
減少 7
エンリコ・ベルリングェル
1983 9,579,699 30.8
107 / 315
減少 2
エンリコ・ベルリングェル
1987 9,181,579 28.3
101 / 315
減少 6
アレッサンドロ・ナッタ
  1. ^ a b 国民民主戦線の一員として

欧州議会

欧州議会
選挙 得票数 % 議席数 +/− 党首
1979 10,361,344 29.6
24 / 81
エンリコ・ベルリングェル
1984 11,714,428 33.3
27 / 81
増加 3
アレッサンドロ・ナッタ
1989 9,598,369 27.6
22 / 81
減少 5
アキレ・オッケット

脚注

注釈

  1. ^ 非合法時代において[2]

出典

  1. ^ a b c d e f イタリア共産党【イタリアきょうさんとう】”. コトバンク. 百科事典マイペディア. 2019年7月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f イタリアきょうさんとう【イタリア共産党 Partito Comunista Italiano】”. コトバンク. 世界大百科事典 第2版. 2019年7月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 柴田敏夫. “イタリア共産党 いたりあきょうさんとう Partito Comunista Italiano”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年7月23日閲覧。
  4. ^ 柴田敏夫. “イタリア共産党 いたりあきょうさんとう Partito Comunista Italiano #改革と党名変更”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年7月23日閲覧。
  5. ^ 柴田敏夫. “イタリア共産党 いたりあきょうさんとう Partito Comunista Italiano #多中心主義と歴史的妥協”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年7月23日閲覧。
  6. ^ ユーロコミュニズム”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年7月23日閲覧。
  7. ^ ウニタ L'Unità”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年7月23日閲覧。
  8. ^ 首相にボノミ、共産党が入閣(昭和19年6月11日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p409 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ ピーター・マシューズ, ed (1992). ギネスブック'93. 騎虎書房. p. 313. ISBN 4-88693-254-1 
  10. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、370頁。ISBN 4-00-022512-X 
  11. ^ Altiero SPINELLI”. Europa. 2016年1月1日閲覧。
  12. ^ The Founding Fathers of the EU”. 欧州連合. 2014年2月16日閲覧。

関連項目