アーサー・ヒル (第4代ダウンシャー侯爵)

第4代ダウンシャー侯爵、1860年代撮影。
第4代ダウンシャー侯爵の肖像が描かれた1847年のリトグラフ

第4代ダウンシャー侯爵アーサー・ウィルズ・ブランデル・サンズ・トランブル・ウィンザー・ヒル英語: Arthur Wills Blundell Sandys Trumbull Windsor Hill, 4th Marquess of Downshire KP1812年8月6日1868年8月6日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族

生涯

第4代ダウンシャー侯爵の記念像

第3代ダウンシャー侯爵アーサー・ヒルとマリア・ウィンザー(Maria Windsor、1790年5月30日 – 1855年4月7日、第5代プリマス伯爵アザー・ウィンザーの娘)の息子として、1812年8月6日にヒルズバラ城英語版で生まれた[1]。1824年頃から1829年頃までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1830年10月21日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]。大学在学中の1831年にコンヤーズ・オズボーン卿(Lord Conyers Osborne第6代リーズ公爵ジョージ・オズボーンの息子)と争った後、コンヤーズが倒れて死去し、検死官が過失殺人であると裁定するという事件がおこった[3]

1834年にダウン県長官英語版を務め、保守党の一員として1836年9月[4]から1845年までダウン選挙区英語版選出の庶民院議員を務めた[1]。議会でははじめ保守党の首相ロバート・ピールを支持したものの、保護貿易を支持し、穀物法廃止をめぐりピールと決裂した[3]

1845年4月12日に父が死去すると、ダウンシャー侯爵位を継承した[1]

1859年5月24日、聖パトリック勲章を授与された[5]

1868年8月6日にハーン湾英語版で死去、息子アーサー英語版が爵位を継承した[1]

家族

1837年8月23日、キャロライン・フランシス・コットン(Caroline Frances Cotton、1815年 – 1893年5月10日、初代コンバーミア子爵ステイプルトン・コットン英語版の娘)と結婚[1]、2男1女をもうけた[6]

出典

  1. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 459–460.
  2. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (E to K) (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 659.
  3. ^ a b Ball, Stephen (21 December 2015). "'A kindhearted savage of a man': Arthur Wills Blundell Sandys Trumbull Windsor Hill, Earl of Hillsborough (1812-68)". The Victorian Commons (英語). 2020年10月21日閲覧
  4. ^ "No. 19417". The London Gazette (英語). 6 September 1836. p. 1571.
  5. ^ "No. 6915". The Edinburgh Gazette (英語). 3 June 1859. p. 790.
  6. ^ "Downshire, Marquess of (I, 1789)". Cracroft's Peerage (英語). 17 August 2013. 2020年10月21日閲覧

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
アーサー・ヒル卿英語版
カースルレー子爵
庶民院議員(ダウン選挙区英語版選出)
1836年 – 1845年
同職:カースルレー子爵
次代
エドウィン・ヒル卿
カースルレー子爵
アイルランドの爵位
先代
アーサー・ヒル
ダウンシャー侯爵
1845年 – 1868年
次代
アーサー・ヒル英語版