アンナ・クルンプケ(Anna Elizabeth Klumpke または Anna Elisabeth Klumbke、Anna Klumpke、1856年10月28日 - 1942年2月9日)はアメリカ合衆国生まれの画家である。
略歴
サンフランシスコで生まれた。両親はドイツ系の移民で 不動産業者として成功した裕福な家庭に生まれた。姉妹に、天文学者となったドロセア・クルンプケ=ロバーツ(Dorothea Klumpke)、バイオリニストのジュリア・クルンプケ(Julia Klumpke)、神経学者のオーガスタ・デジェリン・クルンプケ(Augusta Déjerine-Klumpke)がいる。幼い時代の事故の後遺症の治療を、ベルリンの外科医、ランゲンベック教授から受けるために、母親は姉妹たちを連れてベルリンに移り、アンナは18ヶ月の治療を行った。15歳の時に両親は離婚し、母親の妹が結婚して住んでいたゲッチンゲンに移り、17歳になった時、スイスのクララン(Clarens)に移った[1][2]。
何年か家庭で学んだ後、1877年に家族とパリに移り、人気画家のピエール・オーギュスト・コットに学んだ。1883年から私立美術学校のアカデミー・ジュリアンに入学し、トニ・ロベール=フルーリーやジュール・ジョゼフ・ルフェーブルに学んだ。サロン・ド・パリに出展するようになった[2]。
1889年に高名になっていた女性画家、ローザ・ボヌール(1822-1899)の通訳を務めたことから知り合い、肖像画を描くことを申し出た。ボヌールはそれを喜び、子供のいなかったボヌールのフォンテーヌブローの近くの邸宅に、彼女のためのスタジオが作られ10年間、共に暮らすこととなった。ボーヌルが没した後、ボヌールの遺産の管理者となった。ボーヌールの作品を、国に寄付してローザ・ボヌール美術館の設立に貢献し、ボヌールの回想録を1908年に出版した[2]。
ボヌールの没後も、画家として成功し、1904年のセントルイス万国博覧会では銅賞を受賞し、1924年にフランス政府から、レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した。1932年からサンフランシスコで暮らすようになった。自伝を執筆し、1940年に" Memoirs of an Artist"として出版された。サンフランシスコで1939年から開かれた国際展示会、Golden Gate International Expositionに出展したのが最後の出展となった。
作品
脚注
- ^ Kathleen Adler: Americans in Paris, 1860–1900, 2006, S. 248.
- ^ a b c Klumpke, Anna Elizabeth. In: Hans Vollmer (Hrsg.): Allgemeines Lexikon der Bildenden Künstler von der Antike bis zur Gegenwart. Begründet von Ulrich Thieme und Felix Becker. Band20: Kaufmann–Knilling. E. A. Seemann, Leipzig 1927, S.556
参考文献
- Britta C. Dwyer: Anna Klumpke, a turn-of-the-century painter and her world. Northeastern University Press, Boston 1999, ISBN 1-55553-386-8.
- Kathleen Adler: Americans in Paris, 1860–1900. National Gallery, London 2006, ISBN 1-85709-301-1.