アンドレイ・ニコラエヴィッチ・トゥポレフ (ロシア語 : Андрей Николаевич Туполев 、ラテン文字転写:Andrey Nikolajevich Tupoljev 、アンドリェーイ・ニカラーイェヴィチ・トゥーパリェフ、1888年 11月10日 - 1972年 12月23日 )は、ソビエト連邦 の航空機 設計者。ツポレフ の創業者である。日本語 ではアンドレイ・ツポレフ と表記されることも多い。
生涯
トゥポレフ生誕100年の記念切手
1888年11月10日にロシア帝国 のプストマゾヴォでコサック 出身の公証人 の息子として誕生する。帝立モスクワ工科学校 在学中に航空サークルに参加し、1929年 から亡くなるまでツアギ で航空機を開発していた。彼は大粛清 の時代の1937年 に「メッサーシュミット に機密情報を流した」として反国家活動容疑で逮捕されたが、そのような逮捕者で構成されたツポレフ設計局で航空機設計の仕事を続けた。逮捕されても設計ができたのは、当時のソ連には科学者刑務所(シャラーシカ、Sharashka 、Шарашка )というものがあったためである。投獄中の1941年に新型爆撃機 のTu-2 を開発し、独ソ戦 の戦勝に貢献した。
第二次世界大戦 末期の1945年 には、鹵獲 したアメリカ合衆国 の戦略爆撃機 B-29 (ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル )のリバースエンジニアリング データとトランプランプ の飛行データから、Tu-4 の開発を行っている。終戦後には戦略爆撃機 と共にジェット旅客機 の開発にも取り掛かり、Tu-4を発展させた4発ターボプロップ機のTu-95 、双発ジェット機のTu-16 を開発した。その後、スターリン の死後に釈放された。後任のフルシチョフ とは政治的に友好な関係を築き、ソ連政府の手厚いサポート体制のもとで世界で2番目の実用ジェット旅客機であるTu-104 を、アメリカに先駆けて世に送り出した。1964年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフ 体制に移行する頃には、高齢のために設計の第一線からは次第に退いていったが、超音速輸送機 のTu-144 、3発ジェット旅客機のTu-154 まで、ツポレフ設計局での開発に携わり続けた。
死後はモスクワ のノヴォデーヴィチ墓地 に葬られた。息子のアレクセイ・ツポレフ も同じく飛行機設計者である。
人物
ツポレフ設計局のソ連政府との良好な関係性は、彼の個人的な人間関係に依っていた部分が大きく、彼の死後その政治的優位性の多くはイリューシン によって覆されていった。彼の航空機設計で特筆すべき点は、構想から試験機の実際の進空までの期間が非常に迅速であり、試験機で得られた様々な技術的問題点を大胆に修正して完成度を高めていく手法であった。時間を掛けてでも学問的に理想の設計をするよりも、迅速な就航の為のアプローチを好み、「手荒い」初期設計の大幅な修正作業に伴う膨大な作業も超人的な速度でこなしていった。設計の第一線を離れた晩年も、後進の主任技術者達に対してしばしば鋭い技術的な問題提起を行う彼の存在は、ソ連の航空業界関係者の間では畏怖の念を持って見られていたという。
関連項目
出典