アル・ジョルソン (Al Jolson、1886年 5月26日 - 1950年 10月23日 )は、アメリカ合衆国 の歌手 、俳優 。歌手としての代表作はジョージ・ガーシュウィン 作曲の「スワニー 」である。
映画 の演技に初めて歌を持ち込んだ人物のひとりであり、音声付き映画(トーキー )の最初期の人気スターとなったことから、かつては20世紀 のアメリカを代表するエンターテイナー のひとりと評されたが、「ミンストレル・ショー [ 1] 」を彷彿とさせる黒塗りの顔で黒人 を演じていた(このような演技手法は、公民権法 施行前の、有色人種 に対する人種差別 が合法であったアメリカにおいては問題ないとされていた)ことで、後年の評論家から「ブラック・フェイス ・パフォーマーの王様」と評され[ 2] [ 3] 、人種差別を助長したとみなされているため、今日その活動事績はほとんど無視されている。
経歴・人物
アル・ジョルソンは、エイサ・ヨエルソン (Asa Yoelson) としてロシア帝国 統治下のリトアニア 、セレジウス (Seredžius ) で東欧系ユダヤ人 の家庭に生まれる。父はハッザーン (ユダヤ教の礼拝における先唱者)であった。一族の本来の苗字はヘッセルソン (Hesselson) である。幼い頃に家族と共に渡米し、その後ブロードウェイ・シアター で人気歌手となった。
政治的には保守 派であり、1924年 の選挙に際しては、他のユダヤ系 芸能人が民主党 候補ジョン・ウィリアム・デイヴィス を支持していたのに対し、デイヴィスの対立候補のカルヴィン・クーリッジ を支持した。
ジョルソンは、1926年 に、ヴァイタフォン 方式による音声付き映画(トーキー)の短編作品『農園シーンでの歌 』に出演し[ 4] 、翌1927年 には、商業的に成功した最初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー 』で主演を務め、トーキー時代の幕を開けた[ 5] 。1928年の第2回主演映画『シンギング・フール (英語版 ) 』(パート・トーキー)の大ヒットにより、ジョルソンはトーキーの興行価値を不動のものとした。この頃に「アル・ジョルソンによって映画は歌うことを知った」と評された。
『アメリカ交響楽 』(1945)でミンストレルを演じるジョルソン
この頃のジョルソンは、舞台や上記『農園シーンでの歌』『ジャズ・シンガー』などの映画作品で、ミンストレル・ショー を彷彿とさせる黒塗りの顔 で黒人 を演じ、大げさな演技と黒人のステレオタイプ 的な要素を大幅に取り込んだ歌唱法、口笛 、そして聴衆に直接語りかけるスタイルを確立し、有色人種 に対する人種差別 が法的に認められていた当時のアメリカ社会の価値観の中で受容され、人気を得た。
1940年 にブロードウェイを引退してからはラジオ や映画 で活躍。1941年 12月にアメリカも参戦した第二次世界大戦 に際しては、参戦から終戦に至るまでヨーロッパ 戦線を中心に多くの慰問を行った。
1946年 にはコロンビア社 が彼の伝記映画『ジョルスン物語 』を作り、『風と共に去りぬ 』以来の大入りを記録。1948年 には人気投票[どれ? ] でフランク・シナトラ やビング・クロスビー やペリー・コモ をしのぎ、「最も人気ある男性歌手」部門で1位となった。
1950年の訪日時
1950年 に、医師 の反対を振り切って朝鮮半島 のアメリカ軍 へ慰問に行き、心臓 を悪くしたことが彼の死因となった。ジョルソンが心臓麻痺 によりサンフランシスコ で亡くなった日に、ブロードウェイは彼を偲んで10分間電灯を消した。
フィルモグラフィ
脚注
^ ここでは白人 がメイクして黒人に扮するショーを指すが、黒人によっても演じられた。リンク先参照。
^ “Was Al Jolson 'Bamboozled'? ”. Los Angeles Times (October 20, 2000). 3 October 2022 閲覧。
^ Rogin, Michael (Spring 1992). “Blackface, White Noise: The Jewish Jazz Singer Finds His Voice”. Critical Inquiry (University of Chicago Press) 18 (3): 417–453. doi :10.1086/448640 . JSTOR 1343811 .
^ A Plantation Act - IMDb (英語)
^ “Changes in American culture and society: How did popular entertainment develop during this period? ”. BBC. 2014年10月4日 閲覧。
関連項目
外部リンク