イブン・アズラクはアフワーズからバスラ近郊へ襲撃を加えた。史料によれば、アズラク派は非ハーリジー派のムスリムでなら女性と子供であっても無差別殺戮の対象になるという「イスティウラード」の教義を信奉していたために、他のハーリジー派内諸派のなかで最も狂信的であった、という。イブン・ズバイルの任命したバスラ総督が685年のはじめごろにアズラク派と交戦し、イブン・アズラクを敗死させた。しかしアズラク派は新たにウバイドゥッラー・イブン・マーフーズをアミール(首領)に立てて組織を再編したため、イブン・ズバイルは各所に捜索の手を伸ばして彼らを掃討する必要に迫られた。イブン・ズバイルはムハッラブ・イブン・アビー・スフラを派遣して事に当たらせた。686年5月、ムハッラブはスィッラブラの戦いでアズラク派を破り、イブン・マーフーズを殺した。しかし、ファールス地方へ撤退した彼らを追うことはできなかった。686年後半にアリー家支持者らによるムフタールの乱が起こり、ムハッラブはこれに対処する必要が生じたためである。さらにムハッラブは、来るべきウマイヤ朝の攻撃からモスルを守る任務も与えられることになった。アズラク派はウバイドゥッラー・イブン・マーフーズの弟のズバイルが組織を再編してイラクへ戻り、マダーインを襲った。その後、追及から逃げてイランへ戻り、イスファハーンを襲った。しかし撃退されてズバイル・イブン・マーフーズは殺され、残党はファールスやキルマーンへ逃れた。その後、カタリー・イブン・フジャーアを新たに首領として勢力を盛り返し、バスラに再び現れた。このようにアズラク派はファールスやキルマーンを長期にわたって支配し、そのイラクへの侵攻を、イブン・ズバイル方の将軍ムハッラブが食い止めていた[5]。カタリーは自らの名前において金貨を鋳造した。その際に使用した称号は「信徒の長」を意味する「アミール・ル・ムウミニーン」 amir al-mu'minin である[6]。他方で、ウマイヤ家の勢力は691年にイブン・ズバイルの勢力からイラクを取り返す。ムハッラブから指揮権を引き継いだウマイヤ家出身の将軍はアズラク派に手痛い敗北を喫する。694年にハッジャージュ・イブン・ユースフがイラク総督に任命される。ハッジャージュはムハッラブを復帰させてアズラク派掃討の任に当たらせた。ムハッラブは幾度かの戦闘によりアズラク派を辺境のキルマーンにまで追いやった。アズラク派はキルマーンで組織が2つに分かれ、その後、698年から699年のころに壊滅した[5]。