カアバ とアジャド要塞、1889年。
アジャド要塞 [ 1] (トルコ語 : Ecyad Kalesi 、アラビア語 : قلعة أجياد )は、かつてサウジアラビア に存在していたオスマン帝国 時代の要塞 である。アジャド要塞はイスラーム教徒 にとって最高の聖地であるメッカ のマスジド・ハラーム を見下ろす形で小高い丘(ブルブル山)の上に存在した。18世紀 の後半に建てられたもので、2002年に商業開発の目的でサウジアラビア政府によって破壊された。この開発計画は国際的な批判を浴びたが、ブルブル山は整地され、跡にはアブラージュ・アル・ベイト・タワーズ が建設された。
歴史
この要塞はカアバ やモスクを盗賊 などから守る目的で1780年にオスマン帝国の治世下に建設された。当時、盗賊 や侵略者の間にはワッハーブ派 の過激思想が広まっており、オスマン帝国は彼らが街に入ることを望まなかった[ 2] [ 3] 。要塞はブルブル山の2万3千平方メートルを覆い、南方にマスジド・ハラームを臨んでいた。
アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ 建設のために2002年のはじめにはアジャド要塞は破壊され、ブルブル山の大部分が整地された[ 4] 。2012年の開業が予定されたこの複合施設は高層の居住施設群と五つ星ホテル、レストラン、ショッピングセンターからなり、サウディ・ビンラディン・グループ によって建設された[ 5] 。このプロジェクトは最終的に150億ドルを要した[ 6] 。
反応
この歴史的建造物の破壊は国内外から批判を集めた[ 7] 。トルコ では外相イスマイル・ジェム をはじめとした様々な組織がこのオスマン帝国の遺産を破壊から守るために手を尽くした[ 8] 。民主左派党 の副代表はサウジアラビアへの渡航のボイコット を呼びかけた[ 9] 。トルコ文化観光省 (トルコ語版 、英語版 ) はアジャド要塞の破壊をタリバン によるバーミヤンの大仏 の破壊と比較して、オスマン建築 を軽視し続けるサウジアラビア政府の姿勢を非難した[ 10] 。
批判に対してサウジアラビアのイスラーム関連相 (アラビア語版 ) (Minister of Islamic Affairs)は「何人にも他国の政策に口を出す権利はない」とコメントした、とフランス通信社 が報道している。イスラーム関連相は、この開発計画に含まれる居住施設はメッカ巡礼者 のためのもので、全てのイスラーム教徒の利益である、とも付け加えた[ 11] 。
しかしながらアジャド要塞やその他の歴史的建造物を軽視し、たびたび破壊を続けるサウジアラビアの姿勢は多くの批判を集め、その結果2001年には国王の命令によって要塞を移設する計画が立てられた[ 4] [ 12] 。
ファハド 国王はこのアブドゥルアズィーズ王寄贈プロジェクトと、プロジェクトのために丘を整地し要塞を取り除く許可を出した。王は加えて要塞はそのままの状態で移設されなければならないと指示した。
トルコのイスタンブール にはこの要塞を含む様々な建造物の1/25スケールモデル のミニチュアパーク が存在する[ 13] 。
関連項目
参考文献
座標 : 北緯21度25分08秒 東経39度49分35秒 / 北緯21.41889度 東経39.82639度 / 21.41889; 39.82639