アイズルワース (Isleworth, ) は、ロンドン西部のハウンズロー・ロンドン特別区内にある町。アイルワースと読まれることもあるが誤った発音である[1]。
ハウンズローの町の東隣、テムズ川の西側に位置する。古来の居住地域はテムズ河畔であり、「オールド・アイズルワース」と呼ばれる。町の北西部は「スプリング・グローヴ」と呼ばれる。
歴史
発掘調査により古代ローマ時代の集落の跡が見つかっている。アングロ=サクソンの695年の文書に"Gislheresuuyrth"(Gīslhere氏の荘園)として登場する[2]。ドゥームズデイ・ブックによれば、エドワード懺悔王の時代にはこの土地はアルガー伯の所領であったとされる[3]。
1086年のドゥームズデイ・ブックでは"Gistelesworde"と記録されている[4]。ノルマン・コンクエスト以降は、ノルマン系のセント・ヴァレリー男爵家がこの地を領したとされる。1227年、ヘンリー3世がセント・ヴァレリー家の所領を接収してコーンウォール伯リチャードに譲渡した。1415年、ヘンリー5世はアイズルワース荘の領有権をコーンウォール伯からサイオン修道院に移した[5]。修道院は1431年にこの地に新しい建物を造ったが、これが現在のサイオン・ハウスと同じ場所である[6]。
ヘンリー8世は1539年以降サイオン修道院の領地のほとんどを廃止し、領地はサマセット公エドワード・シーモアに与えられた。1548年にサイオン・ハウスを建てたのがシーモアである。
1594年、エリザベス1世はサイオン荘を第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに貸与した。以後、この地はパーシー家(現ノーサンバーランド公爵家)が400年以上にわたり領有することになる。ストランドにあったノーサンバーランド公爵家邸宅が取り壊されてからは、この地が公爵家の邸宅となった。
18世紀、アイズルワースの大部分は果樹園とされたが、19世紀には青果栽培園となり、ロンドンの市場に商品を供給した。貴族や上流階級向けの大邸宅が立ち並んだ。20世紀前半は職人やホワイト・カラー階級が台頭し、青果栽培園は徐々に減っていった。工場、オフィスが増え、都市化が進んだ。そして1950年代以降、拡大するロンドンに飲み込まれていく。
脚注
- ^ “How Do You Pronounce Theydon Bois?”. Londonist (2011年10月17日). 2013年12月14日閲覧。
- ^ Thames Landscape Strategy | The Arcadian River Thames between Hampton and Kew | tlsdocument Archived 2008年7月24日, at the Wayback Machine.
- ^ 'And So Make a City Here' by G E Bate F.R.Hist.S. p68 published: Thomasons Hounslow 1948
- ^ Mills, A. D. (1996). Dictionary of English Place-Names, p.188. Oxford University Press, Oxford. ISBN 0-19-283131-3.
- ^ Aungier, p.39; Rot. Parl. 9 Hen V, p.1,m.7
- ^ Aungier, G.J. History and Antiquities of Syon Monastery, London, 1840
外部リンク
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